ホーム  >  しこうの楽しみ  >  バックナンバー
しこうの楽しみ

音に対する第3のチャネル

先日ある人と話している時のことでした。
それは感覚についての内容でした。
五感のどの知覚をよく使っているかというところが出発点だったと思います。

一般的には視覚偏重とも言えるというところからでした。
そしてそこから離れるのに聴覚を鍛えるのが良いという方向へ発展しました。
ここまでは今までの理解の通りです。

そこから脳の話になりつつ体感覚の性質にまで広がっていきました。
この順番が良かったのでしょうか。
その段階でふと気づいたことがありました。

音の認識について本当は聴覚だけではないだろうという発想が出てきたのです。
耳だけではなく皮膚感覚も使っているだろうという視点です。
つまり体感覚的にとらえている音があるということです。

花火などの大きな音の衝撃を体で感じたことのある人もいるのではないでしょうか。
なかなかそこまでの音を浴びることも少ないですがそういった性質はあるということです。
ならば認識せずとも皮膚で空気の振動を感じているととらえることもできるでしょう。

小さな音も大きな音と同じように肌でキャッチしているということです。
ただ刺激が弱いために意識化されないという違いがあるだけです。
考えてみれば非常に当たり前なことのような気がしてきました。

発声についての骨導についてはすでに理解済みでしたがこれは新たな発見でした。
ちなみに骨導とは発生した本人の体内で骨が振動して音を伝えるルートです。
録音した自分の声が自分のものではない感じがする理由とされています。

今までは音の知覚を気導と骨導という2種類でしかとらえていませんでした。
ある意味で教科書的な範囲の理解でしかなかったのです。
音は耳で聞くという固定観念に縛られていたのでしょう。

確かに聴覚に皮膚からの情報刺激を含むとは思ってもみませんでした。
しかし気づいてみればこの観点は重要です。
耳よりも皮膚は多種多様な音をキャッチしていることが推測されるためです。

刺激の受容する面積が圧倒的に広いわけです。
ということは聞こえていない音の影響を受けている可能性があるということです。
もちろんそこには望ましいものもそうでないものもあるでしょう。

とはいえ通常は後者が多いのではないかと推測します。
無頓着な場合において大概はそういうものです。
音楽療法をこの観点からとらえるとまた異なる地平が見えるのかもしれません。

そういった専門分野のことは置いておいて自分の身を置く環境にも適応できるでしょう。
どうであれこの気づきから皮膚でとらえる音の知覚力は上がったようです。

谷 孝祐
2018.8.1

裏と表からみる現代のズレ感

ひょんなきっかけからです。
誘われるままに従った結果とも言えるでしょう。
もちろん悪いことではありません。

当日に知ったことですが羽田空港に行くことになりました。
といっても海から飛行機を眺めるというプランです。
滑走路に離発着する様子を近くで見るわけです。

ただよく行く場所ではあるのでそこまでひかれるわけでもありませんでした。
逆の立場は月に何度かはあるわけです。
つまり機内から海を眺めることは珍しいわけではありません。

ということでそこからの風景は概ねイメージできる感じでした。
特に目的地を重視していたわけではないのでそれも良いかという程度の気分で出発しました。
しかしこれはこれで初めての体験です。

空港まで向かう道すがらの臨海部の風景はなんとも言えない空気感でした。
現代生活を支えるバックヤードの姿なのでしょうか。
工場の多さとその広がりが印象的でした。

おそらく石油化学コンビナートなのでしょう。
なんとも言えない雰囲気でした。
殺風景というでもなく活気があるというでもありません。

その独特さから横浜や川崎の海沿いは完全にこの世の裏側の印象でした。
有機的でも無機的でもない営みがそこにあるかのようでした。
これはこれで良い受け取りになったのかもしれません。

表側しか見ていなかったことを理解しました。
どことなくそれにおける環境負荷も気になったのでした。
だからといってすぐに何かを変えようというわけではありませんがどことなく時代のズレ感を認識したのでした。

そのあとの空港だったからなのでしょう。
想像とは少し異なったものに見えました。
頻繁に離着陸する様子にどことなく異様さを感じたのです。

潜在意識でとらえていた何かが顕在化したのかもしれません。
どれだけの人が空を飛び回っているのかと興味が出てきました。
こちらは世界の表側かもしれません。

でもこれはこれで現代文明のズレ感のようにも思います。
人類が本来あるべき姿のようには感じられなかったわけです。
その恩恵を享受している以上それを否定することもできません。

あるがままを受け入れることは簡単ではないのだと思ったのでした。

谷 孝祐
2018.8.2

初めての合唱曲選曲にて

先月に結成式のあった合唱団の2回目の練習がありました。
実質的にはミーティングという方が正確かもしれません。
その大部分の時間は選曲に費やされました。

ということで実際に声を出すのはオマケ程度でした。
曲を選ぶとなると候補のものを聴く必要があります。
現段階で全員が知っているものがほぼないためです。

なので半分近くは聴く時間だったかと思います。
これは一見無駄なようにもとらえられるかもしれません。
どの曲でも良い人にとっては無為に感じられる可能性もあります。

歌うためのレクチャーも少なくなってしまいます。
しかしこれは意外に重要なプロセスだったりもします。
感覚的にそれは知ってはいたものですが改めて実感が持てた体験になりました。

初めてその様子に外側から関わったからこそのことでしょう。
客観視しやすい立ち位置だから感じられたと推測します。
ただ単に曲を聴いているだけなのに輪ができていくかのようだったのです。

この合唱団の一つの目的である一体感の第一歩となっていたのかもしれません。
正直なところこれは不思議に感じるくらいな様子でした。
こんなに簡単に意識の共鳴が起こるのだろうかという程度です。

もちろん当事者だったら認識しにくい穏やかなものです。
ただ潜在的には強固な何かなような気もします。
少なくとも目の当たりにしたことのないことが起きている気分でした。

そんなわけでこの現象に興味がでてきたのでした。
なぜそうなるのかと思ったわけです。
少し分析的に眺めてみるとすぐに理由が浮かび上がってきました。

気づけばなんてこともありません。
主因は同じ目的で一緒に同じ行動をとっているだけのことだと考えられました。
そもそも合唱に参加している各々の理由がそのベースにあります。

つまり自然とベクトルが一致しているわけです。
だからこそ緩やかな場ができたと解釈できます。
そしてこれによって音楽に関わる集団としても方向づけられた感じでした。

全体で決めることによって主体性が喚起されたのでしょう。
印象的なのはその場に集まった全員が最終的に簡単な曲を避けたことでした。
自分が想像しているよりも本気度が高いのかもしれません。

最終的に決まったものはそれなりの難しさのあるものでした。
こうやって非言語的に文化が育まれるのでしょう。
ここから何が紡がれていくのか楽しみになったのでした。

谷 孝祐
2018.8.3

正統派のヴィーガンカフェ

何を前提とするかによって雰囲気は変わるものです。
ちょっとしたことでこれを実感する体験がありました。
それはとあるヴィーガンカフェに行った時のことです。

たまたま近くに用事があってお昼に寄ったのでした。
滅多にいくエリアではありません。
記憶でいうなら2度目くらいかもしれません。

なので初めて訪れるお店でした。
ネットで調べたらほぼ動線上にあったので都合が良かったのです。
それだけでなく無農薬玄米を出しているのも魅力でした。

ということでそれなりに期待感もありました。
もちろんそれが裏切られたという話ではありません。
食事も期待通りの印象でした。

ただどことなく味わいが今まで体験したヴィーガンカフェと異なります。
大概はゆったりとした雰囲気ですがどことなく違うのです。
通常は好きでやっているだけという空気感ですがそれよりはもう少し固い印象でした。

お店の規模も少し大きめです。
スタッフも多めかもしれません。
だからなのかチグハグさが感じられました。

その理由に当たるのでしょうか。
トイレに行った時にあることに気づきました。
水族館に行かないようにというチラシが置いてあったのです。

イルカの虐待をやめようという内容でした。
確かにそれもその通りだという気はします。
ただこれであることを思い出しました。

そこはある意味で生粋のヴィーガン店だったわけです。
単に食の観点だけの問題ではありません。
ベースにあるとされる動物愛護の精神も踏襲しているわけです。

健康を気遣うとかという視点ではないわけです。
レジのあたりには同様のメッセージ性のあるバッジなども売っていました。
ある種の思想性のあるカフェだったわけです。

そんなわけで革製品を使っている自分はどこか場違いな気もしたのでした。
求める形態が同じでもベースが異なるとどことなくアウェイな感覚になるのだと思いました。
一言にヴィーガンといっても価値観は混在しているのだと学んだのでした。

その差を見つめてみるのも案外面白いのかもしれません。

谷 孝祐
2018.8.4

能力を生かすエッセンス47

頭部を動かすことだけでも荷重移動が可能です。
ただこれば初歩的なステップです。
本当は軸が折れないのが理想的です。

ここまでが前回の主旨でした。
ちなみに腰も軸に大きな影響を与えます。
あとはみぞおちもポイントになるということでした。

ということで今回は骨盤に意識を向けてみましょう。
つまり腰の位置から荷重を変化させるベクトルです。
首よりも難しさを感じるかもしれません。

動きをとらえるのにある程度の期間が必要な人もいることでしょう。
なので気楽に日常の中で注意するのが良いかと思います。
これは継続することが必要だと考えられるためです。

ある意味において体の動かし方の改善にもつながるかもしれません。
そのくらい腰は全身の鍵になります。
そうであるなら一朝一夕にはいかないこともあるでしょう。

体に望ましい動きをインプットしていく必要があるわけです。
ではまず骨盤を動かしてみましょう。
準備運動のようなものです。

しかし腰回りが固まっている人はこれも難しく感じるかもしれません。
そうであるなら無理は禁物です。
ほんの少しでもよいので動かして可動域を広げていくことが最初のステップになります。

同時に骨盤から動く意識を高める練習です。
まず椅子に浅く腰掛けます。
すぐに立ち上がれるような姿勢です。

そして背筋を伸ばします。
尾てい骨が立ったイメージです。
ただできるだけ胸や背中はリラックス状態を保ちます。

頭の位置を調整するとやりやすくなるかもしれません。
よい姿勢が取れると重心が座面にきます。
これができると足裏で軽く荷重も感じられます。

そこから股関節だけを動かして前後してみましょう。
腰椎が曲がらないようにすることがポイントです。
つまり背筋を伸ばしたリラックス状態を維持したまま骨盤だけが少し前傾や後傾しました。

上体はそれについてくるだけです。
当然ながら座面の重心も前後します。
足裏の荷重は前にいくと強まり後ろにいくとなくなっていきます。

慣れるまではゆっくり丁寧に腰椎を確認しながら行うと良いと思います。

谷 孝祐
2018.8.5

2018年8月第2週の傾向

先週はいかがだったでしょうか。
月替わりに何か感じることはあったでしょうか。
暑さにそんな余裕もないというところかもしれません。

なんだか1週間たってしまったかもしれません。
ただそれなりに変化を実感した人もいたかと思います。
良くも悪くも自分の性質がとらえやすい傾向がありました。

特に抑圧していたものが顔を覗かせやすい状況でした。
それは本質的なものも含まれます。
なので生まれてきた目的に繋がりやすくなったかもしれません。

そこまででなくともより自己一致に進む何かはあったと考えられます。
でも取るに足りない小さなものと置き去りになるものもありそうです。
ふと思い出しただけで流れてしまいやすいものもあったということです。

特に子どもの頃のものであればなおさらです。
今からでも思い返して手元に戻しましょう。
もしそれが未消化の思いであるなら少しでも満たす方向に意識を向けましょう。

そうすることで過去の自分との統合が進むと考えられます。
気づきが多くて混乱気味の人はこのタイミングで整理しておくと良いかもしれません。
書き出して俯瞰してみるだけであらたな理解が進みはずです。
どうであれお盆に向けて心身の状態は整えておきたいものです。

さて今週の傾向です。
久々に珍しさのない雰囲気でしょうか。
単純な登り坂の印象です。

斜度は中程度でしょうか。
同じような傾きが続いていきそうです。
向き合う習慣ができていれば適度な負荷だと予想されます。

週の始めにペースをつかめば楽に過ごせるかもしれません。
なので忙しくても無理しないことがいつも以上に重要になります。
ローテンションで入ってバランスの安定するところに少しづつ加速してみるのが無難でしょう。

どのようなタスクにおいても焦りや期待からの反応的行動は避けたいものです。
結果的にそれは大ストップにつながるリスクがあります。
特に体調が崩れると戻るのに時間がかかると推測されます。

今まで以上にセルフモニタリングの度合いをあげて活動し続けられるようにしていきたいものです。
一方でこれは日々着々と変化していくということでもあります。
ということで乗り遅れも注意したいところです。

固定観念や理想に囚われてしまうとその可能性は上がるかもしれません。
素直に目の前の現実を受け入れてうまく乗っかっていきたいものです。
ひとまず反応をちゃんと見つめて無視しないようにしていきたいところです。

個人的には毎日のように泊まる場所の変わる回遊を楽しみつつ芯の部分における自己一致にフォーカスしてみることにします。

谷 孝祐
2018.8.6

夏の食にまつわる大転換

この1週間くらいのことです。
現実にはたった4日間に起きたこととも言えます。
それは何を意味していたのでしょうか。

どことなくあった苦手意識が払拭されたのかもしれません。
無意識的に避けていたものに意識が向いたのでした。
その原因はこの暑さにあるでしょうか。

確かにそれが後押ししてくれたことは確かでしょう。
どちらかというと嫌いな食べ物へのイメージが変わった数日だったのでした。
個人的にそれは珍しいものでもあります。

今となっては食べられない食材はあるものの元々は好き嫌いもない方です。
割となんでも食べるタイプだったわけです。
だけど今回のことでこれを無意識に避けていたことが認識できました。

そういえば近所にその人気専門店があっても行く気にもなりませんでした。
なぜ暑い最中に並んでまで食べるのか理解に苦しむところでした。
当然ながら誘われても断ったくらいだったわけです。

ちなみにそれを食べた記憶は小学生の頃かと思います。
夏祭りの風物詩とも言えるでしょうか。
当時はその雰囲気にひかれて口にしたものです。

ただ決まって食べきれず腹痛になることも多かったものです。
それが蓄積していつしか敬遠するようになったのかもしれません。
しかし時代の後押しもあるのかもしれません。

今回の初日はその新たな地平がひらけた気分でした。
たまたま通りすがりで子どもがそのお店に寄りたいと言い出しました。
無添加の記載にこの要求に乗ることにしました。

冬もこれ一本でやっているという本気度の高いお店でした。
凍らせた果物そのものを使っていてなかなか好印象でした。
これで扉が開いたのだと思います。

その翌々日にとある料亭の水菓子として選択肢にあがってきました。
お店の名に恥じない格別の味わいでした。
もう一度これを食べるために夏に訪れたくなるほどのものでした。

お陰である種のトラウマが改善されたのかもしれません。
そしてこの翌日にホテルでのランチでデザートにオリエンタルスタイルのものがついてきました。
4種の味わいが楽しい感じでした。

こうして畳み掛けるように質の良いそれが与えられ強制的に観念の書き換えが起きたのかもしれません。
加えて火照った体を冷やす抜群の効果を実感したのでした。
結果的にその文化の価値を受け取ることができるようになったのでした。

かき氷もなかなか良いものだと思います。

谷 孝祐
2018.8.7

真夏のサウナ初体験

よく行くホテルに泊まった時のことです。
ふと思い立ってサウナに入りました。
なぜでしょうか。

真夏になかなかそう思うものでもありません。
入りたいというよりなぜか気になったという感じでした。
どことなく誘われている感じというのでしょうか。

もしかしたらこの感覚を味わうためだったのかもしれません。
潜在意識の要求だったとも考えられます。
結果的に確かに今までとは異なる知覚が得られたのでした。

それは体感がやはり相対的なものであるということです。
その確認になったのです。
ここしばらくの暑さに慣れてしまっていたのでしょう。

サウナ部屋に入室しても最初は特に何も感じませんでした。
いうならば少し暑いかというくらいです。
湿度が低い分からかむしろ屋外の方が暑いのではないかというくらいでした。

だからなのか汗もなかなか出てきません。
やはり外で歩く方が早く汗が出る印象でした。
そんなわけで入ることが無意味なのかというくらいでした。

お陰で普段より長く入れました。
だからどうということもありませんが面白いものだと思います。
よりゆっくり楽しめる雰囲気でした。

瞑想も落ち着いてできそうなので行ってみました。
たまにサウナ内で行なってみますが一気に汗が噴出してきてすぐにできなくなります。
推定3分ももたない感じでした。

しかし今回はそれがありませんでした。
おそらく10分くらいは問題なくできたと推測します。
それがかなり集中できて密度の濃い時間でした。

少なくともいつもの30分くらいの意味合いがあった様子です。
お陰で個人的に感じでいるそのデメリットもありませんでした。
いつも出たあとに微妙な疲労感があったのです。

スッキリ感が勝るのでそれはそれでよしとしていましたがないことに越したことはありません。
結果的に入った実感は少なかったと思います。
これをデメリットとすることもできますが体の負担は少なかったのでしょう。

この体験によってどこかサウナは耐えることで効果が得られるという観念があったことに気づきました。

谷 孝祐
2018.8.8

ブロックデビューからみた性分

少し前のことです。
ちょっとした思いつきからブロックを買いました。
もちろん子どもへのものです。

前々から頭の隅にはあったものの行動に出ていなかったのでした。
それは家で積み木で遊ぶ様子を見ていてのことです。
一緒にいるとできるだけ高く積み上げようとしています。

加えてどことなく形にこだわっている雰囲気もあります。
本人なりの意図があるようなのです。
なので創作に興味が出てきていそうな様子でした。

ただそう感じつつも先延ばしになっていたのでした。
今思えば重要度がなかなか上がってこなかったのかもしれません。
確かにどことなくまだ積み木でも良い気もありました。

または無意識的にタイミングを見計らっていたのかもしれません。
確かにスタンダードなサイズを与えるのには最も早い時期と言えそうです。
記載されている対象年齢まであと半年くらいです。

でもその基準はどうやら口に入れても飲み込まないというところのようでした。
ということですでに問題はないだろうということで与えたのでした。
結果は想像以上に良好でした。

持って帰るとすぐさまそれで遊び始めました。
かなり楽しいようでした。
どことなく自分の幼少期を思い出すかのようでもありました。

しかし意外なこともありました。
製作ではなく創作の意図から思いついたままに組み上げるタイプを今回は入手しました。
でもそこには参考程度に設計図のようなものが入っていました。

気づけばそれに従って作ろうとしているのです。
何かのスイッチが入ったように厳密に同じにしようとします。
こうなると1cmに満たないパーツをはめる部分もありました。

当然ながら1人では完成できません。
結局のところ最後は親が仕上げるように要求してきました。
パーツも400ピースくらいがごちゃまぜなのでまずは必要なものを探さなければなりません。

しかも少し違うと厳密に指摘してくるので誤魔化しもききません。
この関わりから我が子の見えていなかった性分がとらえられたのでした。
とはいえその後は自由な発想で遊んでいるようです。

両方のバランスが取れるようにうまくサポートしていきたいものです。

谷 孝祐
2018.8.9

象徴的な噴き流しの湯

とある地を訪れました。
かなり久々のことです。
10年ぶりくらいなのかもしれません。

少なくとも前回は2010年以前のことです。
ただ例年その近くまでは行っています。
あと一歩足を伸ばせばすぐという場所です。

でも心理的にはなかなか遠いイメージがついていました。
何となく心していかないといけない気がしていたのです。
そこは日本海に突き出た東北唯一の半島と言えるでしょう。

地図を見ればそれが一目瞭然です。
それがどこか行きにくい印象を醸し出していたのかもしれません。
昔は道もまだ整備されていなく本当に異世界に来たかの気分でした。

不便さとこの地の名物であるナマハゲがその雰囲気につながっていたと考えられます。
通り道にもついでに寄る場所にもなり得ないような地勢も手伝ってのことかと思います。
とにかく目的にしなければ足を踏み入れないところなわけです。

だからこそ足が遠のいていたのでした。
しかし昨年の夏にどことなく気になって今年の予定に入れたのでした。
そろそろ行きたいという感覚が出てきたのです。

機が熟したのでしょうか。
個人的にタイミングとしては良かったのだと推測します。
結果的にこの地の魅力を認識したのでした。

そのお祭りからみてとれるように文化の深さは確かです。
改めて確認したことですが中核となる神社は江戸時代に国内十二社に数えられたそうです。
訪れると現在も霊験な空気を守っている様子すらありました。

当時はきっと己を磨く目的で集ってきたのでしょう。
幸いにして他の参拝者もいなかったのでこの伝統を認識することができました。
まさにそのためにこの半島があるかのようでもあります。

また滞在した温泉地は坂之上田村麻呂が発見したとのことです。
宿泊先では源泉掛け流しならぬ噴き流しという形で湯が注がれていました。
パイプから自然に噴き出てくるままなのです。

色も様々な自然条件で変化するとのことでした。
温泉が生きていることを実感する体験でした。
まとめると何よりも中世からの積み上げが未だ荒らされていない良さがあると感じました。

月並みな表現では忘れ去られた古き良き日本が残っているというところでしょう。
海の青も山の緑も昔とさほど変わらずありのままを残しているようでした。
でも良いことなのか悪いことなのか道路は走りやすくなっていました。

お陰で過去の行きにくいイメージにはヒビが入ったようです。
いずれにせよどことなく地縁ができた体感となったのでした。

谷 孝祐
2018.8.10

能力を生かすエッセンス48

骨盤から動くことは重要です。
軸が折れずに荷重移動を行うための話題です。
同時に効率的な体の動きにもつながります。

余計な負荷がかからないことでリラックスもしやすくなるでしょう。
前回はそのための準備運動にようなものについて紹介しました。
椅子に腰掛けて骨盤の動きで軸を前後に傾けるという練習でした。

必然的に股関節が固まっていると前傾は難しくなるかもしれません。
詰まりがつっかえのように感じられるかと思います。
それが原因で骨盤が動きにくくなっている人も多いのではないかと推測します。

このような場合において無理は禁物です。
体に強い負荷がかかると無意識的な抵抗が強まって継続しにくくなるデメリットがあります。
行なっている実感は得やすいものの反作用も出てくるということです。

加えてできた気になってしまう弊害も出やすくなります。
腰椎も曲げてしまうということです。
これでうまくいっていると勘違いが起きやすいのです。

なので動きをインプットするまでは軽い範囲で行いましょう。
ちょっと詰まりや苦しさが出るかどうかくらいの位置で止めます。
常に重心と体感覚を認識しながらゆっくり動かします。

うまくできると重心が素直に前に移動して次第に足裏の荷重が強まります。
胸を張ったまま肩が前に出てこない状態で動けていれば概ね問題ないでしょう。
一定レベル以上の前傾になると重心が完全に足裏に乗るようになってきます。

状態の重みを支えるように脚部全体に力が入ってきます。
おそらく30度以上傾くとこの感じが大きくなっていくのではないかと思います。
ちなみに最終的には胸を膝にかなりまで近づけることも可能です。

ここまでいければ十分と言えるかもしれません。
ただこれを目的とするのではなく以前よりも骨盤が動くようになることにフォーカスしましょう。
少しでも傾きが大きくなればそれで良いということです。

見える結果よりもむしろどのくらい感じながらできているかの方が大切なくらいです。
前傾の動きだけでも運動不足の人にとってはそれなりの負荷になります。
なぜなら想像以上に筋肉の収縮を促すためです。

ちなみに後傾はもう少しシンプルです。
腹筋で上体を支えられる範囲でしか倒すことができません。
足裏が床から離れない範囲で行いましょう。

特に踵に注意してください。
前後動がスムーズにできるようになると骨盤の可動域も広がっているはずです。
自然と立ち姿勢も良くなるかもしれません。

谷 孝祐
2018.8.12

2018年8月第3週の傾向

世間はちょうどお盆休みというところでしょうか。
出かければどことなくその空気感があるものです。
普段とは異なる時間が流れているような気もします。

そういうタイミングですが先週はいかがだったでしょうか。
日々の積み重ねは着実に進んだでしょうか。
毎日淡々とタスクをこなせた人はその可能性が高そうです。

自覚がなくとも行ったことに対する蓄積の度合いが大きかったように思います。
もちろんこの影響から気づきが連鎖した人もいたでしょう。
特にこれから先にどうしていくかという性質のものが多かったのかもしれません。

自己理解が進むこと以上に現実的に何を行うかに意識が向きやすい傾向でした。
加えてここに過去との別離を意味する場合もあるようです。
今までの自分のパターンを手放していくプロセスです。

そのために反応が減っている自分を発見したかもしれません。
結果的にこれによって方向性がとらえにくくなった人もいたかと思います。
もしそうだとしたら新たなステージに移行したと解釈しておくのが良さそうです。
逆にボーッと無為に流れてしまった人は何が起きていたのか振り返っておきましょう。

さて今週の傾向です。
水面下での新たな流れの屹立という雰囲気です。
人によってはこれが大きな渦のように感じることもあるでしょう。

ただ特に大きな出来事につながるわけではありません。
せいぜいその一端が垣間見えるくらいだと予想されます。
ということで表面的には平穏無事のベクトルだと考えられます。

しかし今までとは異なる性質の切り替わりの時期に当たりそうです。
それは何かの確定を意味するかもしれません。
進んできたプロセスの完了ということもあるでしょう。

ここで生き方がひとまず固まる人もいそうです。
これによって何かに巻き込まれていく感覚を持つ人もいそうです。
なので始まりというテーマを内在する気もします。

何となくここには2019年に向けた助走も内在しそうです。
そんなわけでいち早く来年に意識を向けていくのも良いかもしれません。
当然ながらもっと長いスパンでも構いません。

いずれにせよ今までよりも遠い未来を見据えておきたいものです。
個人的には積み残しがないように仕上げを意識することにします。

谷 孝祐
2018.8.13

最も厳しい子どもとの登山

お盆に入る頃のことです。
登山をしてきました。
南アルプスからだいたい2週間ぶりのことです。

なので体は登り慣れていたかもしれません。
丁寧な歩きを確認し直すには良いタイミングでした。
しかし今回は子どもを連れてのことでした。

その意味では今年初めてのことです。
前回は昨年の11月でした。
9ヶ月たっていたわけです。

やはりそのくらいの期間があると体重も変わるのでしょう。
普段抱き上げるときはそう感じないものの背負うと一気に重くなった印象でした。
以前と違ってそれもひと苦労という雰囲気です。

ということでスタートから気楽さはありませんでした。
むしろ登りきれるか懸念が生まれるくらいでした。
ちなみに今回はなかなか本格的な山でした。

北東北随一の名山とも言えるかもしれません。
ただ標準タイムが往復7時間半程度というところから通常の日帰り程度の認識でした。
その情報から標高差1000mくらいかといい加減に考えていましたがそうではなかったようです。

これは苦しい誤算だったかもしれません。
後から知ったことですが実際には1400m程度の差があったようです。
そんなわけでこの上ない負荷がかかったのでした。

とにかく登り始めてからは体が慣れるのに耐える印象でした。
汗もいつも以上に出てきて10分もしないうちに服は脱水前の洗濯物のようになりました。
そして中盤は岩場のそれなりの急登でした。

身軽であればなんてこともないのでしょうが足の踏み場を注意しなければなりません。
6合目くらいまでは常に断念することも視野に入れていました。
このハードさを事前に知っていれば子どもは置いてきたことでしょう。

とはいえ7合目以降は道も緩やかになり何とか持ち直しました。
稜線に出て山頂までは風も強くそれなりに厳しかったのですが何とか行き着くことができました。
ところがこれでは終わりませんでした。

下りでは雨が降ってきたのです。
非常に滑りやすくなりシビアな判断が求められました。
実際に2度転びました。

それでも大きな問題はなく14時過ぎには下山しました。
日帰りでここまで厳しい登山は初めてでした。
歩き方の改善があったからこそ大きなストップもなくゴールできたのでしょう。

改めて効率の良い体の使い方の重要性を身をもって実感したのでした。

谷 孝祐
2018.8.14

登山の二重苦からの他者理解

今回の登山での受け取りはここ最近とは異なるものでした。
これは重い背中と急な登りが両方重なったことにあったかと思います。
どちらか一方であればそこまでのことでもありません。

子どもを背負うだけであれば厳しすぎるほどの負荷でもないでしょう。
実際にたまに抱いて歩くこともあるものです。
長時間となると目的意識の問題は出てきそうですが無理というほどではなさそうです。

登りに関しても特筆すべきほどのことでもありません。
それこそ南アルプスでも同程度かそれ以上を経験してきています。
過去にもっと明らかな急登も経験していると思います。

正直なところ主観的にはそこまでの斜度には見えませんでした。
過去の経験からくる見た目への評価は余裕のあるものだったわけです。
背中の重みがなければ気楽さがあったのかもしれません。

しかし組み合わさるとそうもいきませんでした。
当たり前ですがイメージするようなペースでは進めないのです。
思ったよりもゆっくり歩かないと息が上がってしまいそうでした。

大人になってからは滅多にない雰囲気です。
心肺機能がついていかない気分でした。
とはいえ呼吸の安定を担保しながら歩みを進めているのでオーバーワークすることはありません。

でもうまくスピードを調整しながら動く必要があったわけです。
そんなわけでギリギリのところで向き合い続ける状況になりました。
当然ながらその状況では感情や感覚が動くものです。

逃げたいとは感じないまでもその苦しさはなかなかのものでした。
なのでほぼ余裕はなかったと思います。
子どもから話しかけられることも面倒に感じる様子でした。

そういった状況においてふと気づいたことがありました。
日常からこんな感じの人もいるのではないかと思ったのです。
例えばインナーチャイルドが多ければそれだけ生きることが過酷になる可能性はあるでしょう。

やらなければならないことに追われていてもそうかもしれません。
そもそも情報処理力や身体機能が不十分であることもあるでしょう。
しかもこれらが重なっていることも珍しくないと推測されます。

こんなわけで生きづらさというものの一端が垣間見えたのでした。
もちろんそこに理解がなかったわけでもありません。
ただ実感は弱かったのです。

おかげで現代に生きる人への感覚的理解が進んだのでした。

谷 孝祐
2018.8.15

初めて感じる脚部の違和感から

登山の影響でしょうか。
それとも偶然の一致でしょうか。
どことなく体の変化が始まったように感じます。

もちろん筋肉がついたというようなことではありません。
当然いつもと変わらずにそれもありますが今回は異なる雰囲気です。
直接的に山登りから想定されるものではない不思議な感覚です。

一体何が起きているのか理解できない様子です。
ということで少し経過を見ていました。
最初は一過性のものだろうと思ったのです。

すぐに元に戻ると考えたわけです。
しかし数日これは続きました。
次第に変な感じは減っていくものの未だに残っている気はします。

もしかしたら単に慣れただけかもしれません。
ちなみにそれは心地よいものではありません。
形容するなら痛みのないかわりにこそばゆさのある成長痛というイメージです。

夜になると脚部にこれが出てきます。
とにかくムズムズするようなモゾモゾするような状況です。
今までの殻が崩れていくのかもしれません。

そういった性質のもののように推測します。
こうして理解しようとするとどことなく全身の問題のようにも感じてきました。
下半身の実感が強くて上半身は気にしていませんでしたがそこも変化するのかもしれません。

春くらいから微妙に意識を高めてきた体作りのプロセスが進んだのでしょうか。
そうであるなら喜ばしいことだと思います。
そんなわけでよりシビアに今の状態に注意を向けてみました。

するとある直感が生まれました。
肉体に対するセルフイメージが壊れていくようです。
どうやら中学生くらいのまま残っている部分があったようです。

いうほど健康でもなければ筋力もそこまでないというものです。
身体機能として弱い自分というイメージかもしれません。
確かに今となっては不一致な認識でしょう。

同時に現状を承認しきることに抵抗があることが知覚されました。
客観的な立ち位置では前より健康な度合いも上がったし筋力もついてきたことは認めています。
だけど主観的にはそれを受け取れていないようです。

意外にこの反発は強いようです。
体の変化でもこういうことがあるのだと面白く感じたのでした。
向き合っていくことにします。

谷 孝祐
2018.8.16

小学生時代の弱い自分の記憶

身体に関するセルフイメージに意識が向いたところからの展開です。
まず気づいたのはこの部分でのアップデートが行われていないことでした。
おそらくこの10年くらいで実際には大きく変化してきていると考えられます。

それが顕著に表れているのは不調がほぼなくなったことでしょう。
もしかしたら疲れにくくもなってきている気はします。
筋力がついて体つきも運動をしている人のようになったかもしれません。

客観的には明らかに違ってきているわけで。
しかしそれが主観に影響を与えていないのです。
改善を希求していたわけではないので不具合が除かれても実感は強くないのかもしれません。

どこか他人事の風合いです。
これは調子が悪くとも気にせず活動するタイプだったことが原因かと推測します。
中学生以降はあまりそれによって休むようなこともありませんでした。

精神力で持っていたのでしょうか。
特に気にせず対処しながら動くのが当たり前でした。
好きなことをやっているとそんなものなのでしょう。

だからなのかいつの間にか現状が得られている印象です。
苦しい努力をしたわけではないため自然にこうなってきた感覚なわけです。
その弊害とも言えるのでしょうか。

こういったプロセスのため固定観念には刺激がいかなかったのでしょう。
今更ながらその不一致さを認識できたわけです。
ということで内省することでそれを探ると小学生時代のイメージが浮かび上がってきました。

当時は体が思うようにいかなかったのです。
運動も苦手というほどではないけれど得意でもありませんでした。
季節の変わり目には必ずといって良いほど喘息の発作になって学校を休んでいました。

特に秋は苦しい地獄のような季節でした。
死んだ方が楽だと思うことも何度もあったかもしれません。
風邪やインフルエンザも縁のあるものでした。

扁桃腺が腫れて入院したこともありました。
この歳になって振り返れば生きることへの抵抗か自虐か何かだったのだと思います。
何となく行きたくない学校を休む口実だった可能性もあるでしょう。

ただ当時は弱い自分を嘆いて諦めていたと推測します。
久しく忘れていたこんな記憶が出てきたのでした。
きっとこれが潜在意識深くに定着していたのでしょう。

表面化せずとも何らかの影響は与えていそうです。
結局これもインナーチャイルドのようなものでしょうか。
うまくクリアして自己一致した認識に書き換えていくことにします。

谷 孝祐
2018.8.16

弱い自分が埋もれた理由

小学生時代の弱いセルフイメージに意識が向いたところからでしょう。
当時はなかなか怖れが大きかったことが思い出されました。
もちろんその前提には不安があったと考えられます。

とにかく生きていくことに自信がなかったのかもしれません。
自己価値を認められていなかったことは確かです。
体も小さい方で喧嘩にも勝てそうにありませんでした。

そもそも争うことは好まずうまく立ち回る性質だったと思います。
社会の状況を知って暗い未来を妄想しがちでもありました。
本当に世界が滅びるような気もしていました。

だからこそ将来のことも熟考するようになったのだと推測します。
これは結果的に自分の人生における重要なメリットでもありました。
未来を推し量る思考力につながったわけです。

しかしその頃の身体的イメージが未だにブラインドになっていたようです。
これは一抹の自己否定とも言えるでしょう。
虚弱な自分が心のどこかに隠れていたわけです。

でも本当はそこまででもなかった気もします。
いつしか切り捨てられた自分としてこれが残っていたのかもしれません。
思い返せばどちらかというとその逆の認識が大きかったのかもしれません。

確かにこれはあまり顕在化しなかった部分のようにも感じます。
このように意識を向けると埋もれていったきっかけがとらえられました。
まさに人生の転機だったのでしょう。

5年生で三浦に引っ越してからはその弱さがバネとして使われる傾向になった気がします。
生活環境がそうさせたのでしょうか。
学校を休むことも激減して生きる自信がついてきたのかもしれません。

それ以降は主体的な在り方が定着していった雰囲気です。
その結果として弱いセルフイメージが見えなくなってしまった可能性はありそうです。
ということで適正化と統合に向けて見つめることにしました。

まずはその頃の感覚を十分に味わっていくことにしました。
そうはいっても観念レベルの残骸からは大きな知覚は生まれてきませんでした。
なぜ書き換えが進んでいないのかというと無自覚に良い循環に入ったためです。

なのでこのきっかけを偶然ではなく自主選択であるように認識の改善を行ってみることにしました。
転校を自分の潜在意識が求めたものだと位置付けてみたわけです。
友達との別離の寂しさ以上に新たな生活への希望は大きかった記憶が出てきました。

しばらく言語化しにくい感覚が動いて最終的にはこの改善はうまくいったようでした。
こうして弱さは人生の一時点のものであり必要なものであったという理解に行き着きました。
しかし一筋縄にこれだけで解決とはいかないようでした。

成長過程をプロットするように丁寧なアップデートが必要な様子だったのです。
いきなり現在に合ったイメージに持っていこうとしても無理がかかるように感じたのでした。
そんなわけで気長に取り組んでみることに決めたのでした。

谷 孝祐
2018.8.18

能力を生かすエッセンス49

前回は安定した軸を保ちながら荷重移動をする感覚につながる練習でした。
椅子に座って骨盤を前傾してみるというものです。
なるべく腰椎を曲げずに骨盤だけで動くイメージでした。

無理せずにできる範囲で行うことが重要です。
これは体の負荷というよりは知覚力の問題です。
余裕がないと感覚をとらえにくくなってしまうのです。

そうなると目的からずれやすくなるものです。
意識するポイントを忘れて形骸化してしまうわけです。
ちなみに後傾の話題も出てきました。

この時は比較すると間違いは起きにくいものです。
あえて言うなら背筋が反りすぎないように注意しましょう。
とにかくこの前後動は基本になります。

なので日常の中で取り入れたいものです。
腰回りが凝り固まっている人はこれだけでも良い刺激になるかと思います。
では次のステップです。

今まであまり触れていないベクトルになるかもしれません。
左右動に進んでみましょう。
前後傾の時と同じように椅子に座ります。

同様にまず腰椎が曲がらないように意識します。
そして真っ直ぐの体軸をイメージします。
これを維持したまま右から傾けてみましょう。

当然ながら背骨はそのままの状態です。
重心が右に移っていくのを感じましょう。
座っている椅子の高さにもよりますが右の股関節が曲がっていきます。

実際にはこの可動域が倒せる限界になります。
なので思ったよりも動きが小さいかもしれません。
それでも構いません。

軸と背筋の維持とともに重心や股関節の動きが感じられる範囲で行いましょう。
何度か感覚をキャッチしながら右で行います。
それに慣れてきたら左で行いましょう。

注意点は同じです。
もし左のほうが適切に動きやすいのであればそちらから始めても構いません。
十分に動きがインプットされたらより骨盤の動きにフォーカスして知覚するようにします。

この動きは上体がぶれやすいのですがそこをなるべく抑えていくことが重要です。
うまくいくと軸の感覚をより鮮明に認識しやすくなると思います。

谷 孝祐
2018.8.19

2018年8月第4週の傾向

お盆時期はいかがだったでしょうか。
普段とは異なる過ごし方だった人も多そうです。
世間的には休みを楽しんだのではないかと思います。

その雰囲気を一緒に味わった人もいたことでしょう。
まさに夏を満喫したイメージかもしれません。
そして秋の気配を感じ始めたタイミングだったとも思います。

週末に向けて随分と過ごしやすくなったかもしれません。
北海道の大雪山ではもう初雪があったとのことです。
関東の梅雨明けと同じように例年より1ヶ月ほど早いらしいです。

そこまででないにしても気候は極端に変化しやすくなっているように思います。
そんなタイミングでしたが先週はどういった様子だったでしょうか。
水面下の新たな流れはキャッチできたでしょうか。

何となく心持ちや発想の変化でとらえられた人はいたように推測します。
また来年に意識が向きやすくなった雰囲気もありました。
もちろん気づけば今までとは違った行動が生まれていたということもあるでしょう。

でも大概それはささやかなものです。
仕事を少し丁寧に行ったという程度かもしれません。
なので自覚していない可能性もあるものです。
振り返って確認しておきたいものです。

さて今週の傾向です。
ストームと五月雨のような圧力と形容しましょうか。
2つの要素が重なり合うと予測されます。

まず嵐のような力がかかりやすいかもしれません。
これは内面をかき乱すようなベクトルです。
翻弄されるとアップダウンが激しくなりそうです。

ただ対称となる極を振れるのとは異なります。
より立体的に振り回される感じです。
とはいえこれも自分の内面でのことです。

すでにある程度の一致感があればこの心配はありません。
さらなる自己理解を進める気づきをあぶり出してくれると考えられます。
当然ながら認めなくない要素もあるでしょう。

それを拒否せずに受け取って力にしていきたいものです。
そしてその裏側ではじわりじわりと洗い流すような圧がかかりそうです。
雨降って地固まるといった方向性です。

同時に塵のような過去の残骸が抜けていくかもしれません。
すでに新たな人生を歩み始めている人には仕上げのような状況です。
完全に以前のセルフイメージやアイデンティティから脱却したいところです。

個人的には身体と心のつながりをより密なものにしていくことにします。

谷 孝祐
2018.8.20

身体的改善のプロセスプロット

体に対するセルフイメージのアップデートのプロセスを進めました。
一足飛びにいくと無理がかかる感じがしたので丁寧にステップをみていくことにしました。
まずは三浦での小学生時代です。

環境が良くなったからか不調が減ったことは確かだった気がしました。
同時に外で遊ぶ割合も増えたと評価できそうです。
少年野球を始めたことも手伝って毎日のように運動していた雰囲気です。

夏には海へもしょちゅう行きました。
この時に体が強くなり始めたのかもしれません。
いつしか持久走だけはぼちぼち得意な認識になっていました。

苦しくて好きではないけれどまあまあの結果は出せるという様子でした。
なぜだか器械体操もそれなりでした。
ただこれは受け取れていなかったようです。

トップになれたわけではないのでそれを認めるところまではいきませんでした。
どうやら完璧主義的思考が妨げになって一番でなければ観念が崩れなかったようです。
これはブラインドの大きな原因だったことでしょう。

中学になっても運動への苦手意識はありました。
しかし以前にも触れた話題ですがその時期は自転車で遠出することが多かったものです。
これが基礎体力を伸ばしたと推測します。

管楽器で心肺機能も鍛えられたのかもしれません。
今思えばこの期間に身体能力も高まっていったと考えられます。
体育の成績も微妙に上がっていった感じでした。

でも他の得意科目に比べると見劣りすることからどことなく苦手意識は残っていました。
ちなみに部活最優先のため学校を休まないように頑張れたことも意味があったのかもしれません。
高校に入るといつしか体育は得意科目に入ってきました。

きっと体が出来上がってきたのでしょう。
努力の成果という自覚ではなく勝手にそうなった印象でした。
なのでここでも主観レベルは前よりは良いくらいのものでした。

大学の体育も評価は良かったのですがやはりそんなものという感覚でした。
その後は体にまつわるイメージについてしばらく意識化されることはなくなりました。
能力発揮への意識が高まり運動を取り入れるようになっても同様の傾向でした。

とはいえスキーと登山とダイビングの組み合わせが確立されてからの進展は大きなものでしょう。
機能改善と筋力向上とともに体感覚の繊細さも伸びてきた気はします。
ここまで体を的確に認識できる感覚があるのは珍しいというようなフィードバックをもらったこともあります。

それも残念なことに主観的には受け取れていませんでした。
ある意味でその道のトップクラスの人からの意見なのでそこにイメージを合わせても良いのかもしれません。
こうやって辿ってみるとほぼずっと上り調子できているようにとらえられます。

微々たるものでもその蓄積は大きなものでしょう。
そう考えると小学生の時とは別次元にいるような気になってきたのでした。
同時に自己一致し始めた感覚が生まれてきました。

入り口に至ったこの状態を大切に定着させていくことにします。
面白いことにこれで身体機能の投影から解かれるような実感が得られたのでした。

谷 孝祐
2018.8.21

今ここにある身体と心

身体レベルでのプロセスを振り返ったのが良かったのでしょう。
ちょうどシャワーを浴びている時でした。
浮かび上がってきた何かが洗い流されたのかもしれません。

ふとある言葉が浮かんできたのでした。
ただこれは以前にも考えたことのあるものでした。
それだけでなく取り組んだこともありました。

しかし不十分だったのでしょう。
気づけば途中で止まってしまっていたように思います。
見方を変えれば今回でひとまずの完了に至るとも解釈できます。

何年越しかで定着するわけです。
それは身体レベルの自己肯定というワードでした。
確かに今回の流れはそこに向けられているようです。

不具合を感じてきた時期を再定義することになったわけです。
単純に成長が遅めだっただけというのが実態でしょう。
高校くらいになってやっと追いついてきた感じです。

でも否定するほどのこともなかったわけです。
これは観念的にすでに自覚していたことですが納得しきれていなかったのでしょう。
そこが解決したのかもしれません。

もし早々と条件が揃っていたら自分はスポーツの世界に進んでいたと推測します。
そうなっていたら今の人生とは全く異なっていたかもしれません。
今生で体験することが全然違うものになっていた可能性があるわけです。

なので何かの計らいでそうなったとも考えられます。
そう思うと仕組まれた感じすらしてしまいます。
このように思考してくると見えてきた部分があったのでした。

身体否定の残骸は現在を承認しきれない要因になっていたのかもしれません。
別の生き方があったという一抹の想いの裏にはそちらに引っ張る力が内在していたようです。
結果的にこれは今とは異なるセルフイメージを意識化されないレベルで生んで干渉になってきます。

構造的にそういったつもりがなくともエネルギーの相殺を招いていたわけです。
随分とロスがあったものだと感じます。
どうりで心ほどは体が変化しなかったわけです。

ということでこの領域は現在の状態につながるために否定的にとらえてしまうような成長スピードにあったと定義してみました。
するとこれまでとは違った体感の自己一致が進んだ雰囲気がありました。
まさに心身合一というのかもしれません。

双方の区別が分からなくなった気分でした。
最終的に大概の自己成長と同様に概念が形骸化していくかのようでした。
肯定というものへの実感が消失していったのです。

ここから体はどうなっていくのでしょうか。
見守っていくことにします。

谷 孝祐
2018.8.22

初めて出会ったスイカという野菜

数日前に行きつけのホテルに滞在した時のことです。
ランチにルームサービスを頼みました。
とはいえこれは少し特殊なスタイルです。

そのスタートは今年の春のことでした。
ここでの滞在時での食事について相談してみたのです。
現在の食生活や嗜好性を伝えて対応してくれることになったのでした。

また1人であれば基本的に部屋で食べたいことも伝えました。
これもうまくやってくれることになりました。
それは有り難い限りの状況へとつながりました。

総料理長がインド人になってすぐのタイミングだったのも良かったのでしょう。
ベジタリアンミールも十分な経験があるとのことでした。
それからというもの部屋食の場合は彼が作ってくれることになったようです。

当然ながらクオリティは上がった気がします。
内容は野菜や豆が中心で少し魚や肉が出る場合もあるお任せスタイルです。
なので出てくるまで何がくるか分かりません。

これはこれで楽しみでもあります。
基本的にはオリエンタルかヴィーガン風かという方向です。
たまに辛すぎたり慣れない味わいのこともありますがそれも発見のうちでしょう。

なかなか良い刺激になっているのではないかと思います。
そんな中で今回は最もセンセーショナルなプレートが出てきたのでした。
冷前菜に該当するのでしょうか。

説明ではスイカのサラダということでした。
長方形に切られたスイカの側面が軽くグリルしてありその上に数種類の野菜が固められて乗っていて大きなゼリー寄せというイメージでした。
こういった発想は出会ったことのないものです。

何よりもスイカを野菜として扱っている感じが新鮮でした。
ということでこの野菜が果物ではないことを実感する体験となったのでした。
観念的に分類上そうであることは多くの人が知っているでしょう。

しかしこれまでそれを認識する料理に出会ったことがありませんでした。
ささやかなことですが価値観が塗り替えられたかのような気がしました。
確かに料理を考える食材としてなかなか出てこなかったわけです。

野菜であるという知識はあってもどうしても子どもの頃の食後のイメージがつきまとっていたのでしょう。
案外そういう意味で縛られているものは多いのかもしれないと感じたのでした。
慣れ親しんだものを違った角度でとらえるのは重要なことだと改めて確認したのでした。

谷 孝祐
2018.8.23

2分に泣いた朝のどんでん返し

つい先日のことです。
その日は珍しく寝坊をしました。
何かの影響だったのでしょうか。

起きる予定の数分前に目が覚めたのですがすぐに気を失ったようです。
なかなか不思議な気分でした。
それはさておき急いで出発しました。

新幹線に乗るために駅に向かったのです。
10分くらい遅れただけだったので普通にいけば間に合うところでした。
もともと余裕を持った時間設定だったのです。

順調にいけばそれでもまだ買い物に立ち寄るくらいは可能でした。
そして道路状況の案内板の情報では渋滞もなくスムーズな見込みでした。
しかしそこからの展開が意外でした。

どんどん渋滞ができていくのです。
朝はそんなものなのでしょうか。
まさに謀られたかのようでした。

結局のところ通常の倍近くの所要時間でした。
そんなわけで駅前に着いたのが出発の2分前でギリギリ間に合いませんでした。
こうなると遅刻です。

調べてみるとその後の乗り継ぎが悪くロスタイムが大きかったのです。
久々に焦るような状況でした。
いずれにせよひとまず現状を受け入れて最善を尽くすことにしました。

ちなみに在来線に2分で乗り継げば予定通りという感じでした。
ただそれは現実的ではありません。
人がいない状況で走ればなんとかいけるかもという距離です。

敗色濃厚なチャレンジです。
昔はそれでも何とかしようとしましたがそんな気にもなれませんでした。
ということで素直に遅刻になりそうな旨を先方にメールしました。

でも諦めたわけでもありませんでした。
なので悪あがきで何パターンか行ける方法を考えていました。
すると乗り継ぎの待ち時間がなければちょうど着けることに気づきました。

その区間をタクシーにするのです。
ここで視野が広がったのでしょうか。
新幹線の最寄駅からタクシーにしたらどうかという発想が出てきました。

そこは各停のこだましか止まらないものの幸い乗っている新幹線でうまく乗り継げることがわかりました。
料金も想像よりはかからなそうでした。
最終的にこれで向かったところ約束の20分前に到着してしまいました。

むしろ早すぎるくらいだったわけです。
一体これは何を象徴していたのでしょうか。
少なくとも電車などとタクシーの組み合わせによるアクセスの発想のバリエーションが広がりそうです。

これは鉄道地図とロードマップが統合されたイメージです。
訪れた土地を正しくとらえることにつながるのかもしれません。

谷 孝祐
2018.8.24

個人的には無目的の旅へ

自分の変化を感じやすいタイミングはどんな時でしょうか。
個人的には海外に行くときは大概そんな感じです。
回を重ねるごとにそれが日常に移行してきているのかもしれません。

何度となくこのブログでもそこには触れてきています。
しかし今回はひときわそれを強く感じました。
飛行機に搭乗しても気分は国内のどこかに行くのと同じ感じでした。

最終的な行き先は初めてなのに面白いものだと思います。
周りの気分の影響も全く受けなくなったのかもしれません。
少なくとも日本かどうかの区別はなくなったかのようです。

もう海外旅行に新たな刺激を求められないのでしょうか。
そう思うと寂しくもあります。
ただよく考えればむしろ今までが縛られていたとも理解できます。

とかく日本人はその意識が強いように推測します。
まさに島国の特徴でしょう。
ちなみにヨーロッパの人たちにはその観念は薄いように見受けられます。

多くの国に陸路で自家用車で行ける環境がそうさせると推測します。
道を走っていても観光地であれば違う国のナンバーをよく見かけます。
特にドイツは多いように感じます。

キャンピングカーで長期の旅行も日本より圧倒的にスタンダードな様子です。
それはさておきこうなってくると旅という概念も自分の中から消えていきます。
すでにその感覚は強まってきていましたが本当にそうなったのかもしれません。

やるべきことがあるから行くわけですが何とか日本でできないものかとも思ってしまいます。
現地で誰かに会うのであればその必要性も感じますが対象が土地であればもう少し方法がないのかと考えるわけです。
きっとより効率をあげたいのでしょう。

とはいえ100カ国を超えたあたりから無心でそこに向かうべき段階に入ってきたのかもしれません。
どこかそんな気もしています。
だからなのでしょうか。

今回は乗り継ぎで6時間空きましたがなんとも思いませんでした。
本を読んで来年のスケジュールを精査していたらあっという間でした。
むしろ足りないくらいで機内でその続きをしたほどです。

逆にそれはなかなか取れない貴重な時間にもとらえられました。
あえて主観的に得られているものを言うならこれくらいなのかもしれません。
同時に昔は4時間でも厳しさを感じたことが思い出されました。

随分といる位置が変わったものです。
よく言えば自己一致が進んでどこにいても変わり得ない状態になってきたと解釈できます。
確かにリラックス度は上がっていて疲労のマネジメントもしやすい気はします。

ということで隙間時間の多いこの時をうまく活用していくことを意図することにします。

谷 孝祐
2018.8.25

能力を生かすエッセンス50

骨盤の動きへの知覚力は上がってきたでしょうか。
椅子に座って前後左右へ移動するのはコツがつかめたでしょうか。
慣れないうちは難しさもあるかもしれません。

またうまくいっているかどうかもわかりにくいかもしれません。
もしそうであるならまずはやってみるだけで構いません。
仕事でも食事でも椅子に腰をかけた時にちょっと動かしてみましょう。

デスクワークで疲れてきた時でも構いません。
そういった蓄積がいつしか知覚力を高めてくれるものです。
気づけばできているなという感覚になるのが理想です。

なので評価はせずに気楽に積み重ねていきましょう。
とはいえ骨盤周りの筋肉などが固まっているとこれが難しいのも事実です。
当然ながらそれは妨げになるわけです。

そんなわけで実感が得にくい人はその辺りをほぐすことも効果的かと思います。
その中でも特に股関節の可動域は重要です。
前傾する時にここが詰まってしまう人もいるかもしれません。

実質的に動ける範囲が制約されてしまうのです。
そうなると骨盤が動かないので腰椎を曲げるようになりがちです。
もしかしたらそれが当たり前の動き方になっている人もいるかもしれません。

いわゆる現代的な生活ではそうなりやすいと推測します。
ということで試しにマッサージしてみると状況がわかります。
足の付け根の部分を親指などで押してみるのです。

概ね恥骨のあたりでしょうか。
自分でやったことがなければほぼ押されたことのない場所です。
問題なければスムーズに指が入ります。

そうでなければ痛みを感じる可能性は高いでしょう。
さらにカチカチで何も感じないこともあり得ます。
これで自覚を持ったら次第に緩めていきましょう。

くれぐれも無理やり押すのではなく適度な力加減が大切です。
最初は意味があるのかと思うくらい弱めからでも構いません。
もちろん柔らかくなる実感はいりません。

痛みやくすぐったさの手前くらいの負荷です。
状態によってはさする程度のこともあるでしょう。
これを行うと意外に骨盤が動かしやすくなることもあるものです。

サポートとしてうまく組み合わせてみると良いかと考えます。

谷 孝祐
2018.8.26

2018年8月最終週〜9月第1週の傾向

先週はいかがだったでしょうか。
お盆休み明けでどうも調子が出ないという人もいたことでしょう。
何となくぼんやりしてしまった感じでしょうか。

確かに大きな反応が出てこなければそうなりやすかったようにも思います。
様々な圧力がグラウンディングを弱めてしまいやすかった状況でした。
なのでいつも通りのはずがズレていたということもあったかと推測します。

もしくは感じないことにしている領域がそうさせたのかもしれません。
見つめたくない自分があればなおさらでしょう。
より感覚を無視する方向にぼやかしてしまいがちなわけです。

こうなると停滞に向かってしまいます。
そして主体性を失って翻弄されやすくなると考えられます。
ゆっくり向き合う時間を取って見つめていきたいものです。

一方で加速感が出た人もいたかもしれません。
タスクをこなしやすくなった感があるかもしれません。
そういう場合はあえて遅らせる余裕が大切です。
勢い任せにいくよりも着実さを大切にしていきたいものです。

さて今週の傾向です。
フニャフニャというイメージでしょうか。
これまた珍しい雰囲気です。

腑抜けになりやすいのかもしれません。
特に環境依存的な立ち位置だと注意が必要です。
やらなければならないからやるという発想が通りにくくなりそうです。

そのベクトルはエネルギーが吸い取られていくような感じです。
つまりさらに意識的に動く必要があるということです。
自分の軸にあった方向へ前進していきましょう。

生き方が定まっていない人はまずはそこからです。
何のために生きていくのかを少しでも明確にしたいタイミングです。
そうすることで良い循環が生まれ始めます。

特に望む人生に向かうのか妥協するのかという選択は重要そうです。
もちろんどちらが正しいというわけでもありません。
いずれにせよ定まっていた方がロスが少ないということです。

ということですでに決まっている人も再確認するのが良いかもしれません。
それによって自己一致が進むものです。
どうであれ後悔のないように歩みたいものです。

個人的には価値観の再構築を試みることにします。

谷 孝祐
2018.8.27

知らなかった二人旅

今回の旅の最初のドライバーとのことです。
1人旅だけど車を頼んだのは初めてだった気がします。
情報が少ないエリアなのでレンタカーは避けたのでした。

ただこれには当日まで気づいていませんでした。
数日間にわたって一対一になるわけです。
まさに旅の仲間になるわけです。

ふとそれに気づくと最初はどうなることかと思いました。
狭い車内に何時間も一緒で逃げ道もないわけです。
しかし実際は心配無用でした。

これまでで最も相性が良かった運転手かもしれません。
コミュニケーション能力も高く困ったこともありませんでした。
カジュアルで紳士的という感じでしょうか。

かしこまった雰囲気ではないけれど適度な距離感という印象でした。
干渉もなくへりくだることもなく対等でありながら気遣いもあると表現できるでしょうか。
特筆すべき良さがあるわけではありませんが十分な真心はあるというところでしょう。

その狙わない等身大の関わりが好感の持てるものでした。
おそらく仕事に誇りを持っているのでしょう。
また客人を適度にもてなす心持ちなのかもしれません。

日本でいうなら気心知れた学生の尊重し合う関係のような気もしました。
ともかくこういった関わりはなかなかないものです。
そんなわけで少し客観的に観察してみました。

すると縁というものはこうやって生まれていくのかという発見がありました。
お互い口数も多くなくでも思いついたことがあれば話すくらいのフラットさでした。
必然的に会話のない時間は長いものです。

それでも移動を共に空間を共有しているだけで共鳴が起きてくるのです。
きっとゆっくり自然に関係性が生まれるということなのでしょう。
概念的には理解していたものの純粋に体験できたのは初めてでした。

余計な力がかからないとこういう感覚なのかというのが実感されました。
次第に集合意識が形成されていくかのようでもありました。
この心地よさを知覚しない心地よさは良い意味で漂白の時のようでもありました。

そして自然体で人間関係を構築する大切さが身にしみたのでした。
加えて等身大というものについて改めて考え直すきっかけになりそうです。
この受け取りを生かしていこうと思います。

ひとまずこのギフトに感謝します。

谷 孝祐
2018.8.28

想定外に招かれた教会

とある教会を訪れました。
世界遺産にもなっている場所です。
とはいえいくつかまとめてで単体ではありません。

この日はそのうちの3つを見る予定でした。
しかしドライバーはここには行ったことがないようでした。
他の2つは知っているけれど全く聞いたこともないような雰囲気でした。

なので調べて連れていってくれました。
どうやらとてもマイナーなスポットのようでした。
そこはちょっとした旧市街の中のようなところで狭い道を入っていきました。

案内板も何もありません。
街の中心というわけでもありません。
それでもひとまず無事に到着しました。

ところが車を止めると警備員に声をかけられました。
閉まっていて中は見れないというのです。
仕方ないので外から写真を撮るだけにすることにしました。

ただその様子を見ていたのでしょうか。
中から修道士かのような風貌の人が出てきました。
通常はここはクローズしていて入れないということでした。

それなのになぜか内部に招き入れてくれて建物の説明までしてくれたのでした。
剥がれた部分はあるものの綺麗な壁画が残っていました。
見世物になっていないからなのでしょう。

神聖な雰囲気は特筆すべきものがありました。
宗教施設は本来こういうものだという感じがしました。
何かの縁か導きなのでしょうか。

とにかく貴重な体験をさせてもらったのでした。
ちなみに彼は日本に興味があるとのことでした。
刀は最もよくできた剣だと言うのです。

宮本武蔵が好きだとも話していました。
面白いこともあるものだと思います。
日本人の多くが知らないような国でもこういう会話が出てくるわけです。

加えてキリスト教聖職者がそういった志向があるのも意外でした。
そこに乗っかって盛り上がる知識はありませんが世界の狭さを感じたのでした。
地域文化に囚われない感覚は思いのほか浸透しているのかもしれません。

谷 孝祐
2018.8.29

神社で書かされた漢字

不思議な夢を見ました。
どこか意味ありげな感じでしょうか。
少なくとも今までにないタイプのもののように思います。

何かメッセージ性があるのかもしれません。
そんなわけで記憶に残しておくことにしました。
そしてあとから客観的に回想してみることにしました。

それは神社参拝のシーンでした。
普段と同じようにお参りをしていました。
摂社などもくまなく回って再び拝殿の前に戻ってきた時でした。

ある1人の男性がその前にいました。
彼が二礼二拍手一礼を終えると中から神職の方が出てきました。
おそらくその雰囲気から神主さんかと思われました。

内容は聞こえませんが彼らは何かを話していました。
自分は意味もなくぼんやりそれを眺めていました。
といってもほんの数秒のことだったかもしれません。

相手もこちらに気づいたのか呼び寄せられました。
近くに行くと筆を渡されました。
同時にある漢字を書くように言われました。

よく聞き取れなくて何を書くべきなのかを尋ねました。
するとゆっくり教えてくれました。
ということでよく分からないままに荒と人と肉の三文字をつなげて書きました。

ここでこの夢は終わりました。
今思えばどこに書いたのかが不可解です。
紙が置いてあったわけでもありません。

柱やその参拝者でもありません。
残っている感覚をたどると空中だったのが妥当な気もします。
しかし確証はありません。

こんな回想をしているとその時点では映像は消えていたのだということが自覚されました。
宙空に漂うような状態だった気がしたのです。
さりとて気になるのはこの漢字三文字の意味です。

解釈するのであれば「荒みたま肉たいによりて人となる」というところでしょうか。
古神道の世界観で言われていることと同義とも理解できます。
シンプルにとらえるならそれが自分の潜在意識にも定着したということかもしれません。

これについて考察すると何かが広がる気もしたのでした。
なのでそこに含まれるエッセンスに意識を向けておこうと思います。

谷 孝祐
2018.8.30

約四半世紀ぶりの等身大の再考

車で移動中のことでした。
何となく今週の個人的なテーマに意識が向きました。
そろそろしっかり見つめようという気になったのでしょう。

月末ということも手伝ったのかもしれません。
しかしそこからなぜだか等身大についての思考が始まりました。
それはいきなりジャンプした雰囲気でした。

もしかしたらこの概念について再認識が最も重要だったのかもしれません。
思い返せばこれを積極的に扱ったのは中学生の頃です。
ありのままにいることと関連して考えたのでした。

そうなるとすでに四半世紀近く経っていることになります。
もう過去の捉え方なわけです。
ということでブラッシュアップが必要な時期にきていたのでしょう。

確かに当時は自己否定混じりの認識だったわけです。
つまり自分を大きく見せないようにというニュアンスを含んでいたのです。
それは学びへの謙虚さにつながったように思います。

ただ一方で今となっては自分を小さくとらえる傾向に結びついているのかもしれません。
そこには安全性も含まれているわけです。
小さくしておけば痛い思いをすることもないわけです。

ある意味ではそこに逃げ込んでいたとも解釈できないことはないでしょう。
もちろんそのつもりはありませんでしたが構造的にそうなってしまうのかもしれません。
このように考えると今の等身大とは合っていない感じがしてきました。

少なくとも小さくとらえるのは言葉の意味からすれば間違っています。
似たような言葉で身の丈に合ったというものもありますが同様でしょう。
能力を発揮して大きくなってきたのであればそれに合わせていく必要があると推測できます。

そうしなければ真に等身大ではないわけです。
そんなわけで現在の自分の大きさにフォーカスしてみることにしました。
すると想像以上にギャップがあることが分かりました。

サイズが大きく変わるということではありませんができることは増えているようです。
結果的に現状はそれを生かさない立ち位置になってしまっているのかもしれません。
これは望ましいことではないと思います。

なので今に合わせるべく取り組むことにしました。
ひとまず体感覚レベルで一致させようとすると抵抗感が出てきました。
ただこれは心理的に不安や怖れがあるというよりはシンプルなもののようでした。

言うならば物理的な摩擦抵抗のようなものです。
向き合って超えていくことにします。

谷 孝祐
2018.8.31

公開終了日:2018/11/30