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しこうの楽しみ

初のダイビング滞在中の出張

今回のダイビング期間でのことです。
自覚は薄いものの変化のタイミングだったのかもしれません。
海の中に限らず新たなパターンが生まれた気がします。

単なるレジャーという観点から逸脱してきたのでしょうか。
確かにこの春に最高の数日を過ごしたところからは一気に転落とも言えます。
ダイビングだけの切り口でいえば結局4泊して2本しか潜っていない残念な旅行かもしれません。

とはいえそれは不満ではありません。
むしろ結果として総合的には充実していた気もします。
その象徴的なのが日帰り出張をしたことでした。

突如そういうことはやってくるのでしょうか。
それは前日に決まったのでした。
離島に滞在していたのですがそこから飛行機で片道約30分のところに行きました。

つまり別の離島に渡ったのです。
目的は現地のとある小さな会社に訪れるためでした。
紹介で急遽会うことになったのでした。

そこは今まで出会った中で最も浄化に適したバスソルトを製造しているところでした。
つい10日ほど前にそれにエネルギー転写してもらえないかという依頼があり試しに使ってみたところからの流れです。
数個もらって他の人に試してもらったところ想像以上のレスポンスが感じられたのでした。

そんなわけで真面目に取り扱う方向に傾いてきていた中でのことでした。
できれば会ってから進めたいたいと先方が考えていたのです。
とはいえ行きの到着予定時刻から帰りの出発予定時刻までの2時間半しか時間がありませんでした。

フライトスケジュールからこれしか選択肢がなかったのです。
そのためだけとはいっても全く余裕はありません。
ちなみに先方は空港から車で片道30分くらいの場所でした。

相当タイトです。
しかしこの機会を逃せば相当先延ばしになるために決めたのでした。
当然それでも実際に会うことの意義はあるものです。

単なる顔合わせ程度の会話でしたが非言語で伝わる何かはやはり大きいのでしょう。
なかなか密度の濃い時間だった気がします。
これで最低限のお膳立てが整ったような感覚がありました。

加えてこの地域に対する意味づけが変わったようです。
ダイビングでの目的地だしかなかった場所に重要な意味が加わった気分です。
結果的にそこが完全に日常の認識範囲に入ってきたようです。

帰ってからこの区間の飛行機は満席なことも多くよく前日に取れたという話も聞きました。
タイミングよく全てがスムーズにいくこともあるものだと改めて思いました。
必要があっての共時性であるならこの新たな関わりを生かしていきたいところです。

谷 孝祐
2018.11.1

鉄板焼きの新境地

この一週間ほどで二回も鉄板焼きに行きました。
これは非常に珍しいことです。
お肉をあまり食べなくなってから選択肢にも上がってこない状況が続いていました。

当然ながらそれは野菜中心ではないわけです。
通常であればメインにステーキでしょう。
なので頭から消えかけていたのかもしれません。

少なくとも今年になってから初めてその気になったのでした。
理由は単純です。
泊まっていたホテルで最も美味しそうなレストランに感じたのです。

ある意味で消去法とも言えます。
とはいえ抵抗感はありました。
観念的には望まない内容です。

しかしスタッフに相談したらメニューをアレンジしてくれるということになり決めたのでした。
やはり直感に従うと気づきはあるものです。
どうやら先入観が書き換えられたようでした。

以前の重たい食事のイメージが払拭されたのです。
こちらの嗜好を察してくれたのかちょうど良い感じでした。
今や苦手となっていたお肉も楽しめたのです。

何だかいつもは感じる雑味や嫌味がなかったのでした。
お陰で食の選択の幅を広げてくれたようでした。
二回目も他のホテルで同じような状況でした。

ただこの時はそこで出されるお肉自体にも興味がありました。
ほぼ地元でしか食べられないシャトーブリアンがあったのです。
とはいえこんな気分になることも昨今では考えられませんでした。

やはり一回目の好印象が影響したのでしょう。
もちろんこの時も楽しむことができました。
その中で感じたのは今までよりも繊細に味わっていることです。

焼き手による違いがなんだか明確にキャッチされたようでした。
上手下手というよりも個性のようなものでしょうか。
単なる味わいを超えた何かがあるような気がしたのでした。

一括りにこの食材はNGなどと言えないことを改めて体感しました。
固定観念かせずにいかに感覚に合わせられるかが重要なのでしょう。
それにしても基本的にお肉を欲しなくなったからこそ鉄板焼きの価値が認識できたというのはジレンマ的だと思います。

案外そういうことも様々な分野であるのかもしれません。

谷 孝祐
2018.11.2

身体が生み出す不安への自覚

何となく新たな流れとなった今回のダイビング旅行を振り返ってみました。
認識したいのは価値観の変化です。
つまり自分にとってのダイビングの意義を再定義しておこうという目論見です。

暗に存在していた目的が達せられてしまったのかもしれません。
やめようというわけではないけれど今まで通りに関わる気にもなれない状態です。
これが理解できると今まで環境依存的に潜っていた気がしてきました。

一般的かもしれませんがその目的で滞在しているのだから基本的に毎日潜るという方針だったわけです。
どこか主体性が足りなかったのかもしれません。
始めたきっかけ自体がそうでなかったため流れに身を任せてきたというのもあります。

その切り替え時期にきたとも言えそうです。
どうであれまずはこの現状への理解が必要なように感じて思考を展開したのでした。
ということで自覚していなかった目的が何だったのか意識を向けてみました。

潜行時のリラックスという今回得られた体験からするとそれは無意識的な不安の解消だったのでしょうか。
もちろんその知覚があったわけではありません。
ただ気づかないうちに微妙に力みが生じていたのであれば不安があったと推測できるわけです。

でもこれはどちらかというと心理的なものというより身体的なものの気もします。
心ではなく体が感じている不安ということです。
確かにこれまでこういった視点は持っていませんでした。

不安といえば心からくるものと解釈していたわけです。
例え体に対する刺激がきっかけであってもエゴの作用が主因になると思っていました。
とはいえ物理的な環境変化に対してそれがあることの方が自然とも考えられます。

エゴを介さずに体から直接不安が生まれるというわけです。
いくらボンベを背負っていても体がそれで安全だと理解するには時間がかかるでしょう。
そこにはやはり体験回数が必要なわけです。

経験主義的と言いましょうか。
平気だった実証の積み重ねで納得するということです。
このように整理してみると確かにその類の不安が存在していたことがとらえられました。

それは心発露のものに比べて表面的で微細な印象です。
肌感覚に近いものかもしれません。
どこか体表にあるかのような感じです。

あくまでこれは主観的なもので幻想と言われても仕方ない概念です。
しかし面白いものです。
知覚すると意外にそれが大きな影響を及ぼしてきている気もしました。

同時にダイビングのスキルを経験本数で測るのも合点がいったのでした。
もしかしたらこれは磁場などに対してもあるのかもしれません。
注意を向けて移動してみることにします。

課題のダイビングに対する新たな価値観の構築はここを出発点に積み重ねるのでしょう。

谷 孝祐
2018.11.3

2018年11月第2週の傾向

11月に入って数日ですがどのような感覚でしょうか。
気づけば今年も残すところ8週ほどというところかもしれません。
朝の空気もいよいよ冬に向かっていく雰囲気があるようにも思います。

そんなことから年末を意識する人も増えてきているでしょうか。
同時に今年の振り返りにも気が向きやすくなってきているのかもしれません。
そういったタイミングですが先週はいかがだったでしょうか。

多方向への引っ張りがあったでしょうか。
感情の揺れは大きくなりがちだった気もします。
また成長欲求と抵抗も揺らぎやすい印象はありました。

生き方を決めきれていないとそういう揺さぶりが起きやすかったのでしょう。
ある意味でのお知らせのようなものです。
もうそろそろ決めるようにという圧力です。

もしそういう実感があるのであればどうであれ心を固めたいところです。
一方ですでに選択図にも人にとっては良い気づきが起きやすかったのかもしれません。
それを通じて次第に現実を変えるコミットに向かっていきたいものです。

さて今週の傾向です。
判を押すイメージの流れです。
場合によっては押さされるとも言えるかもしれません。

シンプルにとらえるなら決定を迫られるという様子です。
しかし実際にはそれよりも意識化しにくいものかと予想します。
無意識に勝手に決してしまう意味合いも含まれるということです。

この対象は大小に関わりなく重要なことから些細なことまで含まれます。
つまりいつの間にか状況によって決められてしまう可能性があるということです。
特に立ち位置については注意したいところです。

すでに無自覚に取っている場所が確定してしまうかもしれません。
例えば弱くて稼げないところに安寧していればそこから出にくくなってしまうわけです。
今後はその内容によっては努力しても変えにくいことが増えるのかもしれません。

そのままで現在の自分の殻でいきたければこれは追い風です。
しかし変化していきたいのであれば向かい風になってきてしまいます。
ということでさらなる発展や成長を志向するのならそれを意図したいところでしょう。

そしてそれをこれまでとは異なるパターンの行動に表すことで方向づけしておきましょう。
小さな一歩でも出来る範囲で踏み出しておくことで停滞を避けられるものです。
個人的にはコミットを強めておいた方が良いものを発見して取り組む週とします。

谷 孝祐
2018.11.5

能力を生かすエッセンス60

踵が加わったことで足裏の感覚は随分ととらえやすくなったのではないでしょうか。
母指球と小指球とともに踵の3点が接地の基本になります。
実質的にここに重みがかかってくるわけです。

ということでこれらの知覚が弱ければそれだけ重心も認識しにくいと予想されます。
それはグラウンディングの不足にもつながるでしょう。
結果的に目の前の現実と乖離した感覚や思考につながってしまう可能性があるわけです。

なのでこのトレーニングはそういった要素の回復にも効果的なのかもしれません。
そういう意味でも足裏での知覚力を高めることは重要に思います。
ちなみにこの3点に適切なバランスで体重が分散するのが理想です。

もちろん均等というわけではありません。
加えて固定的なものでもありません。
歩いているのであればこれは適宜変化していくものです。

当然ながら頭で考えてもうまくいきにくいものです。
ということで感覚を身につけたいわけです。
まず前に触れたように片足における左右のバランスの基本は母指球と小指球のラインです。

ある意味でこれはハンドルのようなイメージかもしれません。
どちらかに傾けば必然的に曲がる方向へ力をかけてしまいます。
結果的に内股やガニ股の要因になるかもしれません。

もしくは足の変形にもつながるかもしれません。
当然脚部の筋肉のつき方にも影響します。
加えてできれば前後のラインも意識したいところです。

踵と母指球や小指球をつなぐものです。
今回はその一方の小指球側について触れておきましょう。
足のアウトラインととらえても構いません。

そしてここへの認識が土踏まずを適切に感じるステップになります。
そこへの意識を強めることはバランス感覚の向上にも意味があるでしょう。
そんなわけで練習内容です。

最初に肩幅で立ってどちらか一方の足の母指球小指球ラインと踵を同時に感じます。
この時になるべく踵重心を強めにしておきます。
ざっと8対2くらいの感じです。

もちろん小指球より母指球の方が重みがかかります。
ここからその足の外側に体重を移動していきます。
つまり小指球側に移っていきます。

そして立っていられる範囲で足の内側を持ち上げて外側のみで立つようにしていきましょう。
可能であればここから片足立ちをチャレンジする方法もあります。
この時に接地しているラインとそのアーチを感じたいところです。

微妙にこのラインにもアーチがあるのです。
しかし潰れてしまっている人もいるのであくまで気にしてみるくらいで構いません。
元に戻った時にこれだけで土踏まずへの知覚力が上がる人もいると思います。

谷 孝祐
2018.11.4

ダイビングとの新たな関わり

身体レベル発露の不安への自覚からこれまで潜在意識が必要としていたダイビングに対する要素が理解できたのでした。
だからこそ流されるままにこのアクティビティに向かわせられたのかと納得です。
確かに海中との行き来がなければこの類の不安は個人的には取扱えなかった領域です。

そしてこの発見は人に対する理解をより深めてくれそうです。
もし自意識が身体に囚われていれば当然ながらこの不安にも縛られがちでしょう。
自分は心にフォーカスしがちでしたが多くの人は逆の可能性もあります。

そうなると想像するにかなり大きな影響があるのかもしれません。
真っ当に考えればどこかおかしい事象が社会のあちこちで起こる一因にもなっていそうです。
そういった意味で世の中を解釈する新たな地平が見えたかのようでもあります。

それはさておきこの受け取りが完了したところで次の段階です。
やってもやらなくてもどっちでも良いフラットな状態になったわけですがここからダイビングとどう関わるのかのを定義したいところです。
状況からいってやめる方が不自然なためこれは重要な取り組みでしょう。

少なくとも来年のスケジュールには入っているわけです。
ということでより自己一致して潜れるように新たな価値観を構築しておくことにしたのでした。
そもそもの問題はある種の強制力からの関係だったことでしょう。

主観的にそれを魅力に感じてのスタートではなかったのでした。
未だにそれは覆っていない気もします。
少なくともスキーや登山と比較したら明らかです。

しかし比べてみてふと気づいたことがありました。
海は自分にとって日常過ぎて生活の一部だったのです。
どちらかというとあるのが当たり前という感覚です。

今でこそそんなことはなくなりましたが久しく海を見ないと息苦しさを感じたこともありました。
実際にスキーで1週間山籠りした時にわざわざ日本海まで出かけたこともあります。
ということで心理的距離が近いのかもしれません。

また新たな刺激も得られにくいのかもしれません。
そう思うと海との共鳴度が高い自覚が生まれました。
そして自分が海に求めている要素がリラックスや心地よさであることが認識されました。

アクティブに楽しむ感じではなく波間にたゆたうくらいがちょうど良いようです。
そういえば子供の頃から遊ぶ場所というよりは眺める対象でした。
今までのダイビングはどこかこれから乖離していたのは確かです。

スキルアップには毎日潜るのも重要でしょうがもうそれも十分な感覚です。
そんなわけでもっと気楽に関わるのが自分に合っていることが見えてきました。
潜るかどうかも気分次第くらいでちょうど良いのかもしれません。

ひとまずこの立ち位置で楽しんでみようと思います。

谷 孝祐
2018.11.6

多義的貴重性の島へ

ほぼ無人の島に行ってきました。
とはいえ今世紀のはじまりまで人が住んでいた場所です。
つまりいわゆる無人島のイメージではありません。

生活の跡がまだまだ感じられるわけです。
時代の波で島民が減っていきそのようになったようです。
しかしそこは興味深いところでもあります。

そんなこともあり今は観光のために整備されている向きもあります。
廃校を利用した宿泊できる施設もあり完全な無人ではありません。
その裏手には見所の教会があります。

これは何とも言えない独特なバランスです。
人の気配はないけれど息吹があるという感じでしょうか。
世界文化遺産に登録されてそれなりに有名にもなったようです。

テレビなどでも何度か紹介されているとのことです。
ガイドさんに尋ねるとその不便さの割に沢山の人が来ている感じでした。
外国人もそれなりに訪れるようです。

でもここの最大の見所はそういった部分ではないのかもしれません。
飛鳥時代からある神社がランドマークのように思います。
その裏手には巨岩が屹立しているのです。

高さ24mで幅が12mあるとのことです。
上部には横になった石が置かれていてテーブル状とも言えます。
そこの広さが畳8畳分らしいです。

磁場が強く方位磁石は使えないとのことでした。
一種の古代的エネルギーセンターでしょうか。
当然ながら自然物か人工物かということは結論できないようです。

要するに磐座でしょう。
昔はその上で神楽が舞われたとの伝承もあるようです。
ということで聖地とも言えるのかもしれません。

そこには海上交通の安全を祈願する意味合いもあります。
目の前に遣唐使船も通ったということでした。
つまり非常に歴史の深い島です。

旧石器時代の遺跡も出ているらしく何かが集約されている気すらします。
その気になったら歩いて回れてしまう小さな島ですが面白いものです。
そこに佇んで感じる風は時代を超えた何かを運んでいるようでもありました。

加えて人の去った後の自然の再生の力もとらえられます。
長い将来の地球像を先取りしているのかもしれません。
どことなくそんな暗示も感じたのでした。

谷 孝祐
2018.11.7

想定外の重圧となった原稿

なんとなく進めてきた出版についての方向性が見えてきました。
当初はこのクリスマス前に書店に並ぶ予定だったものです。
感情にまつわる読みやすい内容を目指してきています。

かれこれ半年くらい関わってきたでしょうか。
しかし最終段階が近づいて頓挫してしまいました。
最終の手直しをして完成というステップでのことでした。

上がってきた原稿が後戻りしてしまった印象だったのです。
確かに内容は網羅されますがどうもまとまっていない感じがしてしまうのです。
様々な意見を取り入れてブレてしまった雰囲気でしょうか。

整理されずにオムニバスにエッセンスが並んでいるように見えました。
その可能性も前々から感じてはいたのでどうということでもありません。
スケジュールも出版社主導だっただけで無理をするつもりもありません。

それよりも納得いくものにすることの方が重要でしょう。
そんなわけで先延ばしが決定したのでした。
やはり書籍づくりは一筋縄ではいかないものです。

今回はインタビューに基づいてライターが書き起こしてくれるスタイルでした。
時間がない中でもそれだったらできるということでスタートしたのでした。
でも結局それではうまくいかないということが分かりました。

類書のある一般的な内容だったら良かったのでしょう。
実際にうまくいった例に関わったこともあります。
行動レベルの方法論や実務的なテクニックであればこれは確実な方法なようにも思います。

比べて心にまつわる新たな見地だとその逆かもしれません。
切ってもきれないところにどう切り口を作るのかという課題はそれ自体が困難なものでしょう。
よっぽどベースがあって固定観念がない状態でないと無理なのかもしれません。

そんなわけで結局は自分で書かなければならなくなったのでした。
要はリスタートです。
構成は決まっているのでその中身を埋める作業を行うわけです。

日々のスケジュールの中で本当に進められるのかは未知でしょう。
ペース感も皆目見当もつきません。
加えてやらなければならないタスクが押し寄せる時期でもあります。

普通の神経をしていたら気が狂うような状況かもしれません。
ということで気楽にのんびり進めてみることにします。
ちなみに新たな予定日は3/10とのことです。

このチャレンジをうまく乗り切りたいと思います。

谷 孝祐
2018.11.8

暖簾だけの飲食店との出会い

とある島でのちょっとした体験です。
帰りの船までの時間にふらふらと歩いていました。
ちょうどお昼前のことでした。

そんなこともあり飲食店がランチ営業を始める頃でした。
港を東に向かってある程度行って戻ってきました。
その時にある風景に遭遇しました。

行きは全く気づかなかったことです。
建物の一階に暖簾が出ていたのでした。
とはいえそれだけです。

外にメニューもなければお店の名前もありません。
つまりどんな食事ができるのかも入らなければ分かりません。
見た目も決してお洒落とは言いがたい普通の感じです。

暖簾がなければ誰かの家か事務所かという様子です。
ちなみにドアも完全に閉まったままでした。
つまり本当に暖簾だけでしかそこが営業中のお店であることが伝わらないのです。

ここまで分かりにくい飲食店に出会ったのは初めてでした。
もちろんどこかで目の前を通り過ぎていたけれど今まで気づいていなかっただけという可能性はあります。
ゆっくり歩いていなければ認識できなさそうです。

だからなのでしょうか。
どことなく見てはいけないものに出会ってしまったような気分が微かに生まれたのでした。
まあ島の食堂というところなのでしょう。

知り合いしかこないからそれで十分なのかもしれません。
これでもアリなのかと自分の世界観がストレッチされたかのようでした。
極端に狭い社会では情報発信は必要ないのでしょう。

告知せずとも自然と人のつながりで知られるわけです。
原初的なコミュニティとも言えます。
誰が何をしているかが伝わってしまう世界です。

でも人の歴史の中ではこちらがスタンダードだったのかもしれません。
いわゆる村社会です。
すると現代では忘れられがちとも言えるその良さが身にしみてきたのでした。

共同体の価値観に縛られる一方で客観性を持たなくてもよい気楽さがあるのかもしれません。
自己認識が不十分であっても周りがそれなりに分かっている状況です。
それはそれで心のつながりの薄い状態よりは幸せを感じられやすそうです。

同時に日本が世界に対して似たような状況である気がしてきました。
空気を読むことが当たり前とされてきたのもその一端でしょう。
この10年くらいで外国人が急激に増えているように感じますが社会集団としてはこれでやっと開国とも解釈できるかもしれません。

そうであるなら日本人が日本人としての自己認識を正しい意味で持つことが意外に重要な気もします。

谷 孝祐
2018.11.10

古神道的集合意識への自覚

来年の古神道勉強会の案内が概ね完成しました。
11/15に案内予定のものです。
あとはチェックをしてもらうステップのみです。

1週間ほど前に終えられたのでひと安心というところでしょう。
とはいえどことなく例年より負荷は高かった気がします。
ある意味で手をつけ始めたのは8月くらいだったのかもしれません。

その頃からちょくちょく関連の本を読み返したりしていました。
少なくとも5冊くらいはマークしたと思います。
要は復習した形でしょう。

約12年ぶりのことです。
当時はかなり積極的に学んだものでした。
しかし一定のところでその熱も冷めて離れていたわけです。

つまり潜在意識下に追いやられていたとも言えます。
ということで今回は改めて意識化された気がします。
なのでこれは自分にとってかなり良い機会になりました。

やはり誰かに伝える前提で触れるのは異なるものです。
しかもプログラム化するならなおさらです。
新たな発見まではないとしてもより緻密に受け取れた気がしました。

そうなると気づくことの深さも変わってきます。
以前は知らなかった世界にどことなく触れた気分でした。
仕事の都合から扉を開いたようなものです。

まさに未知だった世の真に接したかのような体感でした。
とはいえそれまで生きてきた価値観との違いからか身近さはあまりありませんでした。
その情報は自分の外側にあった雰囲気です。

とかく一般とは違う部分に目がいきました。
それがいつしか自分のものになっていたわけです。
今回はまさに内側にある情報が整理されて表出するかのようでした。

結果的に自己一致度も高まった気がします。
きっと若かりし頃から似たような世界観を持っていたのでしょう。
そこまで思想が変化したわけでもないのに鍵穴が合ったかのような状態なのです。

結局のところ生まれてこのかたその集合意識に帰属してきた雰囲気です。
そんなわけからか一般と異なる表面的技術ではなく日本文化の端々に表れている古神道的エッセンスが自覚されたのでした。
これは自分にとっては2度目のルネサンスかもしれません。

なぜだか今ここにいる意義が感覚的にとらえられたのでした。
時代に求められているのでしょうか。
それによって2019年にこのテーマを扱う重要性への納得感が高まったのでした。

同時に日本人のアイデンティティが諸外国に比べて認識されにくいのはルーツとも言えるこの世界観から離れてきているからだと理解したのでした。
いずれにせよ来年が楽しみです。

谷 孝祐
2018.11.9

能力を生かすエッセンス61

これまで足裏の知覚について細分化して扱ってきました。
母指球と小指球の認識はそのスタートでした。
そこに踵が加わって体を支える3点が確認できます。

加えて母指球と小指球ラインで左右の傾きをとらえやすくなります。
そして前回触れた踵と小指球ラインでバランス感覚を磨くことができました。
すでにここまでで十分に土踏まずを認識できるようになっている人もいるでしょう。

今回でひとまずこの積み上げも完成です。
ということで踵と母指球のラインについてみていきましょう。
実際にはここが足裏で一番アーチのある部分です。

正確にはアーチのあるべきラインとも言えるかもしれません。
ここが土踏まずと呼ばれる部分です。
厳密には他2つのラインも土踏まずと呼ばれるようですが重要度の観点からこのアーチに絞ります。

実際に接地するのは踵と母指球のみという様子です。
つまりラインといっても線では床につきえません。
もちろんこれは理想状態でのことです。

現実にはここも潰れてしまっている人もいるのかもしれません。
合わない靴や不適切な歩き方の影響が出やすいところでもあります。
そもそも歩く機会が少ないだけでもその可能性はあります。

いわゆる扁平足というものです。
もしここがぺったり床につくようであれば対応を考えていった方が良いと思われます。
とらえようとしてきた土踏まずがなかったという状況です。

とはいえ現代的な生活ではもしかしたらそういうことも多いのかもしれません。
なので気に病むこともないでしょう。
いずれにせよここを起点に良い状態になっていければ良いことです。

ではこのラインへの知覚力を高めていきましょう。
正常にアーチがあれば実際には踵と母指球の連動感覚とも呼べるかもしれません。
これがライン感覚に該当してきます。

行うことは踵小指球ラインの時と反対に動くだけです。
肩幅に立って踵重心を強めに内側に移動していきます。
右足を練習するのであれば左に移動していくわけです。

この時にできるだけ状態を倒さずに行います。
ポイントはそれでも左足に重心が移らないように右足の踵と母指球で支えます。
できれば親指には力まないようにしておきたいところです。

可能な人はそこから片足立ちしてみましょう。
どちらにしてもこのつながりをラインとして認識したいところです。
この時に踵と母指球の間に知覚できる空間が土踏まずということです。

谷 孝祐
2018.11.11

2018年11月第3週の傾向

先週はいかがだったでしょうか。
何か重要な決断はあったでしょうか。
どことなくその圧力が強まった気はしました。

結果的に今までにない選択をした人も多かったのかもしれません。
勝負に出るような決意をした人もいるかもしれません。
そこまででないにしても進む意味合いを持つものは起きやすかったと思います。

一方でどことなく縛られて動けなかった可能性もあります。
無意識の抵抗に翻弄されて無為に過ごしてしまったパターンです。
それによっていつの間にかチャレンジを諦めている可能性もあるでしょう。

しかもそれは真っ当な思考のように見えたりもします。
守る感じです。
もちろんそれがいけないわけではありません。

ただそうだとしたら本当に自分が望んでいることなのか確認したいところです。
大きなブレの要因にもなるので気になることがあれば早急に見つめ直しましょう。

さて今週の傾向です。
重くのしかかる蓋というイメージでしょうか。
分かりやすいところでは抵抗が強まりそうです。

大きな決定の後であればなおさらのことでしょう。
後悔や取りやめる気分が出てくるかもしれません。
いわゆる揺り戻しのようなものです。

その力が通常よりも強そうだということです。
一気に元に戻ろうという力にもなりかねません。
そうでなくとも停滞しやすい状況ではあります。

こういう時は動きを重視するのが良いかと考えます。
何かをやり続けることを意識しておくわけです。
当然ながらこれは進むべき方向へのものです。

ということですべきことを明確にしておくのも重要でしょう。
気づいたら逃げでネットサーフィンしていたなんてこともあり得ます。
流されるままにいる間に戻れないくらいのとこに行ってしまうかもしれません。

なのである程度スケジュールをこなす感覚も軸になります。
特に1人での作業は注意が必要です。
理想通りにいかないとしても計画的に積み重ねてやらないよりはマシな範囲に落ち着けていきましょう。

この逆風のような状態で進めることがコミットメントを強めてくれるのでしっかり向き合いたいところです。
個人的には嵐の中をのんびり歩く気分で進んでみることにします。

谷 孝祐
2018.11.12

閉じていたボディケアへの扉

いつものホテル滞在のことです。
何か心境が変わったのでしょうか。
普段とは違う興味が出てきました。

これはトリートメントについてのことです。
ここでは定期的にオイルマッサージを受けています。
決まった頻度ではありませんがそれなりの回数でしょう。

セラピストもこちらの体のことをよくとらえてくれている印象です。
もちろん普通に上手です。
最近は海外で買ってきたオイルを使ってもらったりもしました。

随分と融通もきかしてくれるわけです。
いわゆる行きつけのような状況です。
ということで普段はメニューを見るようなこともありません。

だいたい決まったパターンなわけです。
しかしこの時は何となくその冊子を開いたのでした。
体がいつもとは違う刺激が欲しかったのでしょうか。

なぜだかボディケアが気になったのでした。
これはオイルを使わないタイプのものです。
いわゆるマッサージというイメージです。

せっかく受けるならオイルがあった方が嬉しいという気分から少なくとも10年以上は避けてきていたものでした。
そちらの方が効果的な印象を持っていたのです。
オイルがないと揉み返しや相手のエネルギー状態が気になるというのも大きな理由でした。

ということでいつしか選択肢に上がらないものになっていました。
ただこの時は自分の課題意識に働きかける展望を感じたのかもしれません。
それは肩甲骨上部をほぐして緩ませたいというものです。

凝っている感じではありませんが指がちゃんと入らないのです。
ここが改善されればさらに可動域も広がってリラックスしやすくなると予想しています。
でもいつものパターンでは不十分な感じがしていたのです。

どこで受けてもここに十分に働きかけてくれる手技は経験ありません。
肩甲骨の裏側に指を入れていくような力はかけてもらえないのです。
かといって自分でもなかなか難しい部位です。

セラピストへの信頼が前提にあったのは確かです。
そこを重点的にできないか聞いてみました。
するとアンバランスにならない範囲でやってくれることになりました。

でも劇的な改善はみられませんでした。
とはいえ微妙に変化があった実感はありました。
ジワジワ働きかけるしかないのでしょう。

懸念していた弊害も感じられなかったので適宜取り入れてみることにします。
改めてフラットな立ち位置から選ぶ大切さを確認したのでした。
ひとまず固定観念が外れて良かったです。

谷 孝祐
2018.11.13

構造的に避けられたマッサージ

ボディケアの件であとから思い出されたことがありました。
それを避けるようになった経緯です。
ただ何か問題があったわけではありません。

結果的にその状況になった感じです。
自然な流れのままそう決まったようなものです。
そもそも昔はマッサージにそこまでの興味はありませんでした。

若ければ当然でしょうか。
整体に行くくらいなものでした。
似たようなものですがこれは腰痛の改善が目的でした。

行き先は医療機関かそれに近しいところでした。
楽器をやっている都合から職業病のようなものでした。
つまり痛みが出たときだけのものでした。

まだ根本解決を目指すような発想ではありませんでした。
というより宿命のようなものとして諦めていたと考えられます。
むしろ腰痛があることがホルニストの証であるかの風潮があり微妙に自己価値の一部になっていたのかもしれません。

また慢性的な肩凝りは自主的に姿勢から改善したこともあり整体以外には意識が向きませんでした。
いずれにせよそこに一定以上のお金をかける発想はありませんでした。
その立ち位置が変わったのはヒーリングを提供し始めてからのことでした。

自分の状態を整えようと思ったわけです。
しかしその対象はエネルギー体についてでした。
その目的からオイルマッサージを受けたのが始まりでした。

当時は感動的な実感があったものです。
まさにオイルの力に魅せられた雰囲気でした。
セルフケア用を自宅に用意したりもしました。

そんなことから一般的な目的とは異なりますがスパアイテムへの扉が開かれました。
そこから基礎化粧品まで広がっていったものです。
最終的に10万円を超えるクリームを試したこともあったのでした。

今となってはこれも過去のことですがプロダクトありきだったわけです。
つまりオイルを使わないマッサージはそもそも選択肢に入ってきていなかったのでした。
加えてこの立ち位置を補完する知識として揉み返しやセラピストからの影響があったわけです。

実際にその体験があるわけではないのにその実感はそれなりでした。
要は食わず嫌いのようなものだったわけです。
いつしかそれが固定観念化したのでしょう。

違いはオイルの有無だけに思っていたのでボディケアの有用性を知ろうとしなかったわけです。
でも今回は体に直接アプローチする意味で効果を感じました。
オイル使用時のような体感はないものの目論んだ肩甲骨周りをほぐすのには良かったようです。

ブラインドだった部分を無意識に避けるようになってしまっていたのだと理解したのでした。

谷 孝祐
2018.11.14

緻密さを欠いた身体認識への自覚

体を整える上で面白い話題がありました。
マッサージとは別件のことです。
それはポテンシャルを使えるかどうかに関するものです。

聞いた話はノミの例えからでした。
潜在意識活用の分野では有名な内容です。
コップにノミを入れて蓋をすると最初は蓋にぶつかるけれど次第にぶつからない程度にしか跳ばなくなるというものです。

一度そうなると蓋を外しても跳び出すことがないとのことです。
つまり枠に収まってしまうとその必要がなくなっても枠内でしか動くことができないというわけです。
そしてこれは多くの人に起きているということです。

人がなかなか変われない要因だと考えられたりもします。
成長過程で作られた自分の枠からなかなか出られないわけです。
実際にチャレンジを怖れるのは幼少期の失敗体験からなのかもしれません。

しかし今回は体に関することでこの例えが持ち出されました。
どうやら運動でも似たことが言えるようです。
もちろんここでは「できない」という思い込みのベクトルとは異なります。

身体機能についてのことです。
メカニズムは違えどもやはりフラクタルなのでしょう。
ポテンシャルを使っていないと動かなくなるというのです。

可動域を十分に利用していない期間があると脳がそれしか動かないと誤認するようです。
それもそんなに長い時間ではありません。
結果的に本来は動かせる分も動かなくなるわけです。

加えて一度そうなってしまうと自分での回復は難しいようです。
どうにかしようとそても自動的に筋肉が突っ張って動けなくしてしまうためらしいです。
なので力を抜いて本来の可動域まで誰かに動かしてもらうしかないとのことでした。

こうなると本当の機能低下よりも先にこれが起こることもあるでしょう。
無意識の認知レベルの後から次第にその体に合っていくという寸法です。
現代的な生活であればその可能性の方が高いのかもしれません。

とはいえ自然な可動域を認識することも簡単ではないとも言えます。
そうなると身体レベルの自己認識への努力も重要ということになるでしょう。
よく思い返せば自分にとってここはブラインドだと感じます。

ある程度とらえているものの未知の領域は大きいのかもしれません。
これに気づくと圧倒されてしまう感覚も出てきたのでした。
確かに心に比較したら大雑把なものです。

同様の緻密さが持てるように意識していくことにします。

谷 孝祐
2018.11.15

思考のメッシュと完璧主義

完璧主義についてふと思うところがありました。
何かの刺激がきっかけだったのでしょうか。
これまでとは異なる視点が生まれてきたのでした。

ということで改めて整理しておこうと思いました。
多くの場合においてこれは完璧でなければならないという在り方でしょう。
つまりそれ以外を受け入れがたい状態です。

基本的には自分にそのベクトルが向かいますがそれが他者にも広がりやすい気はします。
ある理想を自他に求めるわけです。
対象はそこからさらに社会にまで及ぶこともあるでしょう。

もちろん完璧を目指すことに意味はあります。
努力のエネルギー源になる可能性があるわけです。
だからこそ頑張れるというパラダイムです。

もちろんアウトプットの完成度が高いのも望ましいでしょう。
どうであれ中途半端よりは良いと考えられます。
しかしその裏側にはできない自分を認めたくない心理が隠れている場合もありそうです。

不完全さをないことにしておきたいわけです。
そこには自己否定も絡んできがちかもしれません。
同様に自己価値の投影にもなりそうです。

要は完璧である自分に価値を見てそうでないところを否定するわけです。
結果的に自己不一致な状態です。
ここで描かれる理想が客観的にも重要であればそれも必要と言えるかもしれません。

一方で独りよがりだとしたら苦しいだけの感じもします。
いずれにせよそれによって自らに圧力をかけてしまうとストレスになります。
それがイライラにつながることもあると思います。

ここまでは今までの理解でした。
加えて技術的とも言えるポイントに意識がいったのでした。
情報処理の緻密さと言えるでしょうか。

物事をざっくりとらえる状況においてこれは起きやすいのかもしれません。
白か黒かの発想です。
転じて完璧かそうでないかということです。

そう考えると細かな違いをとらえることは完璧主義を手放す足がかりになりそうです。
単純にそれを止めるとするよりも効果が上げやすいとも予想されます。
こうとらえると思考の訓練不足によってそうなってしまっていることもあると考えられます。

適切なアドバイスに生かしていければと思います。

谷 孝祐
2018.11.16

子どもながらのストレス

久々に幼稚園のお迎えに行きました。
それでどことなく変化を感じました。
原因が何かは分かりません。

ただ我が子の様子が以前と違っていました。
何かストレスがかかっているのでしょうか。
周りが見えていない雰囲気でした。

つまり前よりも自己中心的な様子でした。
見方によっては多動児です。
先生の話を聞かずに立ち上がっていたのでした。

ちなみに他の子は全員ちゃんと座っていました。
その後の帰りの準備も他人事です。
できるはずなのに親にやってもらおうとするのです。

そして出口では花に水やりをしたいと言って帰ろうとしませんでした。
仕方なく先生に許可をもらってほんの少しだけオッケーにしてもらいました。
明らかに十分に土が湿っていたためです。

これらは何かのアピールのように感じました。
加えて帰り道では友達を通せんぼしてしまいました。
要は意地悪です。

そういう時期もあり得なくはありません。
ただ気になって話をしてみました。
まずは幼稚園を辞めたいか聞きました。

するともう行きたくないと言うのです。
今まで楽しすぎて行かないことはあり得ないくらいだったのにこの変わりようです。
でも友達と遊べなくなることを伝えると翻りました。

やっぱり辞めないと言っていました。
ただ確認のために同じことを何度か尋ねるとコロコロ変わります。
ということで何が原因なのか質問してみました。

ある男の子がぶつかってくるのが嫌とのことでした。
この子が休んだら行きたいと言うのです。
本当のことかは全く分かりません。

ただひとまず共感しました。
素直な反応としてひとまず承認したのです。
確かにその要素は完全に否定はできないのでした。

ここで会話が終わりました。
その後は遊びたくなって真面目に受け答えしなくなったのです。
それはともかく思い返せば全体の空気感が重かったのでした。

子どもたちが1ヶ月半前と比べて元気が感じられなかったのです。
そういった影響を受けて疲れているのかもしれません。
実際に次の子ができる予定がある家庭がそれなりにあるようです。

ということでインナーチャイルドが膨らんでいる可能性はあります。
3歳児といえども変化に向き合う力がかかって逃げたくなるものなんだと思ったのでした。
ここが社会性を身につける重要なステップなのでしょうか。

そんな気がしたのでうまく乗り越えられるよう適宜サポートしていこうと思ったのでした。

谷 孝祐
2018.11.17

能力を生かすエッセンス62

ここまで足裏の知覚を高める各ポイントについて触れてきました。
それは同時に土踏まずを認識するという目的もありました。
当然ながら足の状態を理解することにもつながるでしょう。

結果的に足裏のアーチが弱い自覚が生まれた人もいるかもしれません。
実際に現代人の多くはその可能性があります。
もちろん十分に適切な運動を行ってきていればそんなこともないでしょう。

しかし日常生活だけでは難しいかもしれません。
よっぽど歩きで移動する頻度が高くなければ不可能なようにも思います。
それはさておきその問題点は何なのでしょうか。

扁平足の弊害はどんなものなのでしょうか。
今回はそれを改めて確認しておくことにします。
知識を入れることで望ましい状態に向かう動機になればという考えです。
ちゃんとアーチがある場合だとしても知っておくことで維持する意識づけになるでしょう。

ということで本題です。
基本的には歩行時の衝撃吸収が十分にできないことが問題だと考えられます。
接地のタイミングで地面とぶつかる力をアーチで吸収できないわけです。

しかしここから様々な部分に波及していくのが厄介です。
まずは膝や腰にも負担がかかりやすくなりそうです。
場合によっては上体にまで関係するかもしれません。

そうなると全身の負担が強くなります。
結果的に疲れやすくなるでしょう。
加えて歩き方もおかしくなりそうです。

姿勢が崩れてきて骨盤も望ましい位置ではなくなると推測します。
そんなわけでバランス感覚にも影響しそうです。
片足で立つことが次第に困難になっていく気もします。

また足自体に負荷がかかることもあるでしょう。
踵から母指球のアーチが下がればそれだけ足首が内側に入ってきます。
そこから外反母趾につながっていく力もかかりそうです。

同時にマメなどもできやすくなると考えられます。
そうなれば歩くことが億劫になるかもしれません。
これでは悪循環です。

ちなみに靴の持ちも悪くなるでしょう。
いきなりなんとかできるわけではありませんがアーチが弱いのであれば意識して改善を試みたいものです。

谷 孝祐
2018.11.18

2018年11月第4週の傾向

先週はいかがだったでしょうか。
進むことへの抵抗が自覚されたでしょうか。
揺り戻しのような力を感じた人もいるかもしれません。

新たな立ち位置に疑いが出たかもしれません。
過去の行動論理に戻った人もいたことでしょう。
とにかく追いやられるような力がかかりやすかった気はします。

もちろんこれを機会としてコミットメントを強めたいとこでした。
改めて方向を決め直すことで安定感が増したと思われます。
特に最近の変化が大きな人にとってこれは重要でした。

過去のアイデンティティを手放すタイミングであれば八方塞がりな気分になったかもしれません。
どうなっていくのか分からなくてどうしようにもできないというものです。
生まれ変わるかどうかの最終決断の圧力とも言えるでしょう。

行方が分からないままにプロセスを委ねられるかどうかが求められるわけです。
そこに安全の保証があるわけでもありません。
そもそもその確証を必要としない段階に進みたいわけです。

これは自己信頼を強めるということでもあるでしょう。
不慮の事象に対応する力が自分にあることを承認する意味合いがあります。
ひとまず願わない現実を受け入れる心境を得たいものです。

さて今週の傾向です。
立ち上がる時期という雰囲気です。
もしくは突き上げられるイメージかもしれません。

現実的に物事の起点なりそうな予感です。
つまり今いる立ち位置から何か新たなことが始まる感じです。
実際に過去にはなかったパターンが生まれやすいと想像します。

転職や独立などの第一歩が出るかもしれません。
引っ越しに向かう可能性もあります。
人間関係を変える働きかけが始まることも考えられます。

とはいえ劇的なものである可能性は高くはありません。
ちょっとした違いであることの方が多いわけです。
例えばルーティンのタスクに対して先手が打てたとか気になりつつも行けなかったお店に入れたなどというところです。

しかしこういう類のものほど大切にしたいものです。
自然であればあるほど意識化されにくく流れていってしまうかもしれません。
そうなると主体性を欠いた状態になって受け取りにくくなるわけです。

結果的に自己理解が遅れて滞りの原因になることもあるでしょう。
ということで普段以上に日常をモニタリングしていきたいものです。
個人的には後手に回っている課題のパラダイムを変えるチャレンジをしようと思います。

谷 孝祐
2018.11.19

生きることへの抵抗の残骸

ここ最近は睡眠不足が続きました。
予定が詰まっていたのはあります。
ただそれは珍しいことではありません。

なのでこれが原因ではありません。
タイトではあるものの特に問題はないわけです。
スタートは5日くらい前のことでした。

夜中に子どもが泣いて呼ぶのです。
何か霊的なものなのでしょうか。
怖い夢でも見たのでしょうか。

行ってあげればおさまりました。
ちょっとすれば寝てくれたのです。
とはいえこれが複数回ありました。

連日のコマ切れ睡眠は微妙な疲れをもたらします。
3時間まとめて寝れるかどうかという状況でした。
まるで乳児を相手するようなものでしょう。

しかし数日後に多少は余裕が出る算段でした。
そのタイミングで寝れれば問題ないわけです。
ところがそうもいきませんでした。

風邪だったのでしょうか。
この日は戻してしまいました。
今までにないパターンです。

そしてこの晩は5回起こされました。
1時間半まとまって寝れれば良い方でした。
面白いのはそれを察知して直前に目覚めるのです。

なので次第に対応がスムーズになっていったのでした。
とはいえこうなると気楽にもいられません。
ちなみに子どもは何も食べられなくなりました。

でもそこまでグッタリという雰囲気でもありません。
病気と言い切れるわけでもない不思議な状態でした。
何かに当たったのでしょうか。

食欲がなくなったわけではないのに飲食すれば戻すという可哀想な感じでした。
水も摂取できなかったのです。
その割には元気がある印象でした。

肉体を持って生きる洗礼のようなプロセスなのでしょうか。
ふとそんな発想が頭をもたげました。
そして自分の幼少期に意識が向きました。

よく調子を崩したものです。
これを思い出すと当時は生きることへの抵抗があったことが自覚されました。
ある種の潜在意識による自虐です。

加えてこれが何となくこれが完全にはクリアになっていない気がしました。
この機会に見つめてみることにします。

谷 孝祐
2018.11.20

睡眠の長短への固定観念

連日の睡眠不足から自覚されたことがありました。
それはある種の固定観念です。
知識を鵜呑みにしていたのかもしれません。

ある程度まとまって寝ることが重要だと思っていたのです。
おそらくこれは一般的には事実でしょう。
少なくとも3時間は連続で寝たいと考えていたのです。

十分に時間が取れない時はこれが基準になっていました。
とはいえそこまでのことは滅多にありません。
大抵5時間くらいは取れるものです。

ということでその観念に薄々気づきつつも自覚は弱い状態でした。
疑いの余地がなかったのです。
加えてこれを崩すべき事象も起きなかったわけです。

しかし今回のことで想像以上に平気な自分も感じられたのでした。
もちろん起きる時のダルさはあります。
日中に眠くならないわけでもありません。

頭の重さも否定できません。
でも耐えがたいレベルでもないのです。
適当にこの状態とうまく付き合えているのでしょうか。

寝落ちすることはありません。
長距離の移動でも起きていられることに変わりないわけです。
あえて言うなら処理速度が下がるくらいかもしれません。

ちょっとゆっくりメール返信をしたりという感じです。
これも問題ではありません。
このように意識が向くと我が子が乳児だった頃はそんなものだったことが思い出されました。

心算があればさほど大変にも感じないようです。
むしろだからこそ当時は受け取り損なってこの固定観念を扱わないままになってしまったのでしょう。
授乳期は当たり前だから何とも思わなかったわけです。

ここまでくると同時に長く寝れるのが理想という想いも自覚しました。
どうやらそこに価値を見出していたようです。
ただこの原因は分かりません。

集合意識的な影響でしょうか。
さほど睡眠不足でもないのにそう理解していたわけです。
そんなわけでそれらを外すことを試みました。

状況や体調のバランスしたところで睡眠時間は決まると解釈してみたのです。
すると時間の長短は気にならなくなりそうな展望が生まれました。
より自然体で寝ることと関わっていきたいと思います。

谷 孝祐
2018.11.20

2018年最後の登山

今年最後の山登りに行ってきました。
この季節になると低山中心になるものです。
概ね一年に渡って雪の影響が少ないところになるわけです。

なので基本的に難易度も高くはありません。
特に今回はハイキングと呼んでも良いくらいの山でした。
そんなこともあり新たなチャレンジをしました。

子どもを背負って地下足袋で歩くというものです。
これはより丁寧さが求められるものでしょう。
重いウェイトで靴のサポートがないことにより足への負担は強まります。

ということで足のケアも意識しつつ進むことになります。
そんなわけで今までこれにトライできないでいたのでした。
トレイルランのシューズがまだ使えたこともそれを支えていました。

しかし子どもを連れた前回の登山を最後にその靴も手放したこともありこの機会が生まれました。
スタートは快調でした。
特に難しさを感じなかったわけです。

ただ地面は濡れている場所もあり注意は必要でした。
それでもそこまでペースは落ちませんでした。
登りは大体そんな様子で歩けました。

あえて言うならかがまないといけない箇所が多かったのが予想外でした。
意外にこれは体力を消耗するものです。
もしかしたらそれも影響を与えたのかもしれません。

下りは少し大変でした。
整備はされているけれどメンテナンスされていない状況だったのがその主因でした。
要は歩きにくい条件だったのです。

こうなると地下足袋の不利さが身にしみてきます。
濡れている木や石に足を置く時には細心の注意が必要です。
足袋の中で足が前に動かないように親指と人差し指で切り込みをつまみ続けることが求められます。

次第に集中力が低下してくるような気がしました。
結果的に姿勢が崩れていくのも自覚されたのでそれを修正する必要も出てきました。
行動食がお菓子だけだったのも良くなかったのでしょう。

なかなかスピードが上がらない雰囲気でした。
ということでうまく体をマネジメントしながらゴールしたのでした。
でも後からこの効果が実感されました。

軸がより安定した体感があるのです。
脚部の使い方もよりバランスが取れたものになっていた気がします。
トレーニングとしては良かったと思います。

谷 孝祐
2018.11.22

ワシントンに向けた音のイメージ

今月も合唱の練習の日がやってきました。
前回からあっという間のようなすごく時間が経ったような不思議な気分です。
どことなくつながっていないような感じもあります。

現実的にはそんなことはないのに面白いものです。
ワシントンに向けた本格始動だからでしょうか。
その地での本番が着々と固まってきたことは確かです。

そこに向けて新たな参加者も加わったことがあるのかもしれません。
もしくはみんなの心持ちが変わってきたということも考えられるでしょう。
いずれにせよどこかステージが一段上がった気はします。

ただこれは単なる投影かもしれません。
自分の中で概ねゴールイメージができてきたことも影響していそうなわけです。
これはどのくらいの演奏レベルを目指すかというところです。

もちろん完璧であることに越したことはありませんがそれとは異なるものです。
テイストとかカラーという類のものでしょうか。
この方向に仕上げていこうというベクトルです。

とはいえこれは言語化が容易なものではありません。
つまりそれ以外の要素が大きいわけです。
少なくとも言葉から入るものではないわけです。

あくまでこんな感じという音が頭で描けることが出発点です。
それが今回で明確になったわけです。
もちろんそこに無理やり当てはめるつもりもありません。

でも理想があった方が上達しやすいものです。
多くの場合は音楽家同士で感覚的にこういったものが共有されます。
それはきっと前提を持っている者同士の共鳴であろうとも考えられます。

ということでそれなくして近づくのは難しいのかもしれません。
ここに向き合うのが今回のチャレンジということなのでしょうか。
不可能はないとも言いますが現状のレベルからは客観的に不条理です。

そんなわけでひとまずあえて言語表現してみましょう。
選ばれた曲からいっても結びとか繋がりとか紡ぐということかと思います。
実際にこの企画のテーマ設定もそうなっています。

一体感を超えた必然でしょうか。
「あってしまった」という感じです。
偶然を予定調和的に演出するかのようでもあります。

結局これも変換した表現でしかありませんがそれでもハシゴにはなるのかもしれません。
やはり少なくとも自分にとっては音が言葉以上の存在だと自覚したのでした。

谷 孝祐
2018.11.23

未承認となっていた音楽経験

今回の合唱練習後に次第に感じるようになったことがありました。
音のイメージと関係するのでしょうか。
直接的には別の話題ですがどこかつながっている気はします。

何となく自己一致感が高まってより深い課題が明らかになったのかもしれません。
それは受け取りに関することです。
最近は練習中に音楽理論も扱うところからの視点です。

楽譜に書かれていることをとらえる一環です。
ある意味で音楽の授業のようなことをしているわけです。
ここに投影が入っている自覚はあります。

無意識的に自分の理解レベルが通常だととらえているわけです。
客観的にみんながそれを分かっていないことは理解できているものの感覚がズレているのです。
もちろんすでに経験があって不要な人も一部いると思います。

だからなのかどことなく初歩的な話題で申し訳なさが混じるのです。
それでも最低限の基本は押さえておきたいところでしょう。
結果的に念のために伝えておくという立ち位置になります。

しかし実際には大多数にとって必要なことかもしれません。
教えていても想像以上にベースがないことを体感します。
中学時代に学んだであろうことも記憶になさそうだったりするのです。

当然といえば当然のことでしょう。
教育指導要領にあったとしても本当に授業で扱ったかすら怪しいものです。
そうでなくともテストのためだけの記憶では消えてしまいやすいものです。

でもそんな様子が自分には真新しく刺激になったようでした。
むしろ楽譜が読めないという状態が想像つかないのです。
これが明確に自覚されたのでした。

そこから意味を読み解けないということなのでしょうがだとするとどのように映るのでしょうか。
正直なところ不可解で興味深いものです。
嫌味や批判の意味合いは全くなくその状態がイメージできないのです。

子どもの頃から慣れ親しんでいるものはそうなってしまいやすいのでしょう。
ところがこれでは分かって当然という力が内在してしまいます。
相手に合わせて伝えることも難しくなってしまいます。

ということで未開の課題が自覚されたのでした。
同時にそこから転じてこの技能が自分にあることを受け取れていないことにも光があたりました。
大袈裟に言えば音楽経験を承認しきれていないのかもしれません。

確かにその実感は弱いものです。
当たり前すぎてその対象に上がったことすらなさそうです。
未だに人生のかなりのウェイトを占めてきた部分になるのでこれは大きな取り組みなように推測します。

しっかり向き合うことにします。

谷 孝祐
2018.11.24

能力を生かすエッセンス63

前回は少し異なるエッセンスで扁平足について触れました。
端的に言うならその状態に近づけばそれだけ不具合が出やすいということです。
しかも全身に影響が出る可能性があるわけです。

とはいえ現代的な生活ではそもそも良いアーチができていないかもしれません。
なので足裏をなおさら意識しておくことが重要だと思います。
せめて現状維持以上にはとどまりたいものです。

もちろん改善できるのであればそちらに向かいたいところです。
ここで土踏まずの認識という意味でもう一つ気にしたいところがあります。
今まで母指球や小指球と踵の各部位とそれぞれを結ぶラインを扱ってきました。

三角形と各頂点にあたる部分を認識するイメージです。
これだけでもそれなりの難易度でしょう。
ということでひとまずはここまでを重視したいところです。

そうすれば接地感覚をとらえやすくなり体の傾きなども知覚しやすくなります。
これでも十分なくらいという人もいるでしょう。
その意味において今回は最後の仕上げと考えることもできます。

ちなみに一般的にはあまり触れられない要素かもしれません。
ただ足裏三角形をまとめる上で意義のあるものです。
それは足裏中央のラインです。

今までに比べると概念的なイメージかもしれません。
あえて特定するなら踵から中指を直線で結ぶような感じです。
踵を頂点として母指球と小指球を結ぶ底辺を二等分する線です。

厳密ではありませんが概ねそのようなラインもとらえたいところです。
なぜなら三角形をバランスよく注意するのは意外に非効率です。
結局インラインかアウトラインに偏りがちになりがちです。

もしくは前後も同時に認識しにくかったりします。
これらを総合的に知覚しやすくするのが中央ラインです。
またここを起点に足の使い方を考えることでアーチを自由に活用しやすくなります。

要は手の感覚に近づけることができるのです。
ところがこれをとらえるのは今までよりも簡単ではありません。
アーチがちゃんとしていればそれだけ接地しないことになるのです。

そうはいっても少しはトレーニングしたいところでしょう。
そのためにはこのラインを意識た上でライン上で重心を前後させてみるのです。
ゆっくり丁寧に行いましょう。

十分な足裏認識力が身についていれば左右のブレを自覚するかもしれません。
うまくいかなくてもこれ自体がさらに足裏への意識を高めてくれます。
少し慣れたら歩くときにこのラインの向きを注意してきましょう。

できれば楽に歩ける角度を探ってみるとさらに良い受け取りがあるかと思います。

谷 孝祐
2018.11.25

2018年11月最終週〜12月第1週の傾向

この11月はあっという間だったでしょうか。
いつにも増してそんな気がします。
大きく進んだようなそうでもないような感じでもあります。

少なくとも時の流れだけは速いように思います。
半ばそれに翻弄されがちなのかもしれません。
きっとそんな人も多いことでしょう。

思い通りに物事が進まなければその可能性があります。
無自覚の抵抗に留まってしまっているのかもしれません。
観念的に動かすことがさらに難しくなっているのかもしれません。

無理をしにくくその反動も強まっている気はします。
結果的に後手後手に回ることになりかねません。
もしそんな実感があるのなら何とか立て直したいのではないでしょうか。
そうであるならひとまずそのコミットをもって過ごしたいところです。

さて今週の傾向です。
柔らかな雲の中のようなイメージです。
前が見えるような見えないような雰囲気です。

これは後ろにも左右にも当てはまります。
つまりどこにいるのか分かりにくい状況です。
ということで自分を見失ってしまうかもしれません。

今までのセルフイメージが崩れやすいと推測されます。
これは本質的には喜ばしいことでしょう。
しかし過去に執着すればそれだけ無為に過ごすことになるかもしれません。

またミスも増えるかもしれません。
なので今にしっかりフォーカスしていきたいものです。
これはその時々に感じていることを無視せずに向き合うことを意味します。

その中には抑圧してきたことへの発見があるでしょう。
もしくは幼少期の忘れていた何かが浮かび上がることも考えられます。
特に感情にまつわることは重要です。

くれぐれも反応的に動かないように注意したいところです。
自分の軸を意識しつつゆっくりでも前進していきましょう。
実感はなくともその積み上げが未来につながります。

できればそこに期待も疑念もなく淡々といきたいところです。
無心とは個を超えた感覚とも言えるのかもしれません。
そこにある個性を発見していきたいものです。

個人的には新たな扉を開いて今と違う流れも受け取れるよう意識することにします。

谷 孝祐
2018.11.26

痛切にとらえていた才能の欠如

先日の合唱練習後の気づきからの展開です。
音楽をやってきたことについて十分に受け取れていないと感じた件です。
当たり前すぎてそこまで扱うつもりにならなかったのでしょう。

現在につながるその意味を理解して満足していたのでした。
確かにそれだけでもかなりのエッセンスです。
真剣にそれに向き合ってきたからこそ今があることには疑いがありません。

そのくらいその世界で培われた力が重要だった実感はあります。
しかしよく考えれば通り一辺倒な解釈かもしれません。
だから音楽をやってきた意味があったと帰結しているのみなのです。

最も効率的な方法であった気はしますが完全にツールの位置付けに追いやられているわけです。
それを志向してきた主観は置き去りになってきたとも言えるでしょう。
つまり潜在意識的目的にフォーカスが当たりすぎたわけです。

ということで音楽に関わってきたことをより多角的に見つめてみることにしました。
すると頭部に突っかかりのようなものが感じられました。
固定観念的自己否定というものでしょうか。

その才能はなかったという理解が留まっている雰囲気でした。
思い返せばそういう自己認識があったものです。
当時は完璧主義でもあったので自分の演奏に満足することはほぼありませんでした。

いつだって失敗がつきものです。
本番でミスがなかったのはたった一度だけという状況でした。
それでも自己満足には至らなかった記憶があります。

だからといって自分の存在価値への否定とは結びつきませんでしたが観念にはなったわけです。
要はそれ自体をプラスに意味づけできていなかったのでした。
結果的に得られたものは大きかったけれど主観的には満たされていなかったということです。

なんとも自己不一致でしょう。
ただ客観的には音楽もそれなりにやってきたと考えられます。
理想には程遠くとも下手の横好きよりはマシだったことでしょう。

このように考えると当時の自分がまだまだ統合されていない感覚が出てきました。
簡単に言うと自己肯定できていないのです。
結局は諦めたことには変わりないという解釈なわけです。

完全に主体的に辞める選択をしたつもりだったわけですがそれは状況をみてのことです。
この諦めと選択の狭間にスタックしていたようでした。
まずはプロの端くれが最下層ではないことをとらえることにします。

ひとまず音楽的才能について悪くはなかったと思える方向へ近づけていく方針を置いてみます。

谷 孝祐
2018.11.27

客観的理解と主観的解釈のズレ

引き続き音楽をやっていたことそのものについての受け取りを進める話題です。
そもそも自己認識に問題があったというところからです。
ある種の完璧主義からくる自己否定だったわけです。

しかしこれを自覚するとある視点が明らかになりました。
当時は主観と客観が同時に混在していたのでした。
特にそれは自己評価に関係していたようです。

喧嘩することなく両方があったため今まで気づくことができませんでした。
これは今回のことで自分の音楽的才能を適正に認めようとしたところで分かりました。
実は客観的にはすでにそこまでの否定はなかったのです。

天才ではないけれどそこそこは立ち回れるというくらいでした。
ある程度は自信が持てるようにはなっていたのだと推測します。
実際に本番終了後に全肯定的賞賛を受けたこともありました。

そこまででなくとも継続的に演奏者として呼んでもらえることからもそう理解していました。
レッスンしてもらっていた先生の評価も悪くはありませんでした。
才能はあるから頑張れという感じでフランス行きを誘ってもらったこともありました。

講習会に講師として呼ばれていたのに同行しないかということでした。
日本では参加したこともあったのですがさすがに海外は飛び込めませんでした。
お金を理由に断ってしまいました。

ドイツ留学のために貯めていた分を切り崩すほどの魅力は感じなかったのです。
今思えば何らかのコネクションを持たせようとしてくれていたのかもしれません。
そういえば20歳の時にモスクワでレッスンを受けた先生に留学を誘われたこともありました。

かなり熱意を感じましたが主観的指向はすでにドイツで悩んだものの辞めました。
こう思うと当時の選択が違かったらどうなっていたかと考えます。
ただ今の方が望ましいことは十分に実感できるので後悔はありません。

とはいえ若かりし頃は流れに乗れなかったものだと感じます。
意識がドイツ以外に開かれていなかったのです。
でもその原因に主観的評価もあったように思います。

努力する気にもならないほどの理想と現実のギャップがありました。
全くといっていいほど思い通りにいかないイメージでした。
そんなものと受け入れてはいましたが諦めのようなものでしょう。

能力が不十分だから練習しなければという発想でした。
それでも上達はしましたが劇的なものにはなり得ません。
振り返ればなかなか苦しい状態だった気もします。

主観は外部からのフィードバックを受け入れていなかったわけです。
奢らないよう謙虚さを保つという名目の元で怖れや不安を抑圧していたのかもしれません。
他者目線の評価に適切に自己理解を合わせていきたいと思います。

谷 孝祐
2018.11.28

ブラインドとなっていた音楽的能力

自分の音楽的能力に対する自己評価を他者目線に近づけようと試みました。
主観と客観のズレがそれを受け取れない状況にさせていると理解したためです。
確かにいつでも褒め言葉を素直に受け取れていなかったものです。

嬉しさはあるものの常に否定的部分に意識が向きました。
だからこそさらに努力する理由になったのかもしれません。
しかしそれでは楽しみも減じてしまうでしょう。

結果的に好きなことがルーティンワークのようになってしまっていたのだと推測します。
日課としての練習メニューをこなす毎日になっていたわけです。
どこかそれに満足してクリエイティブに向き合えてはいませんでした。

ただ基礎力を磨くことは効果を及ぼすものです。
本番で使い物にならないような経験は一度もありませんでした。
どんなに体調が思わしくなくても最低限は何とかすることができていたわけです。

とはいえそれは自己承認しがたい要素でしょう。
NGだけど耐えているようなものです。
要は当たり障りないわけです。

しかしその安定感は評価される理由だったのかもしれません。
特に目立たない役割が多かったことからこれは重要かと思います。
それは演奏の上で他者を支えるパートです。

周囲のズレを感知しながらバランスを取って合わせていく影役者のようなものです。
そこが崩れると想像以上に多くの奏者に影響が出るわけです。
没個性的なうまさが必要だったのかもしれません。

そしてその観点においてはなかなか妙技だった感もあります。
その領域に理想は存在せずあるがままの状況に合わせるまでです。
でもこれは案外難しいことなのかもしれません。

もしかしたら努力だけではどうにもなりにくいセンスの問題とも言えそうです。
少なくとも事前準備しにくい世界です。
ここまで思考が進んでズレていたポイントが明らかになりました。

この能力に対して主観的に価値を見出せていなかったのです。
まさに在りたい自分像に覆い隠されてしまっていた能力なわけです。
ところがこれは特にホルンという楽器において非常に重要なスキルです。

巡り合わせとは面白いものだと思います。
中学時代に半ば強制的に決められた楽器だけど性質に合致していたわけです。
こうやって整理していくと何となく固定観念が緩む感覚がありました。

そして主観的にも脇役の価値を承認できる気がしたのでした。
音を出しつつ変幻自在であることは誰でもできることではないのだと思います。
決められた通りに演奏するよりも場合によっては難しいのかもしれません。

谷 孝祐
2018.11.29

内なる音楽家の発現

音楽をやってきたことへの受け取りを進めたからでしょう。
心境に変化が出てきました。
端的に言うなら少し前向きになってきたというところです。

諦めたという認識がきっとどこかで影響していたのだと思います。
確かにそこから始まった今がある感覚はそれ以来ずっとありました。
大袈裟に言うなら敗者復活のようなものです。

急激に変わったわけではありませんがどこかジワリと切り替わったようです。
要するに解釈を加えるなら自分の主観の一部では代替的な人生だったわけです。
使命があるとするならばそれに生かされているような状況でした。

理解できないけれどやるべきことがあるから命が永らえている様子です。
目的があるといえばそうですが主体性は完全ではありません。
自我の出ない良いバランスではありますが何かに動かされている体感がありました。

悪いわけではない居心地の良さがありつつも力は弱い印象でした。
不満は全くないけれど将来への期待もない状態です。
現在までに実現できたことはそうだったからこその結果でしょう。

日々押し寄せる課題を追いかけてきたらこうなったというものです。
一方でそのタームもゴールが見えてきたのでしょうか。
最終的にそれすら何かの抑圧になっていたのだと推測します。

全人的な一致感にはさらに段階を上がる必要があるのかもしれません。
今回の取り組みで当時の諦めが昇華された気分です。
言葉で表せば仕方ないという同じ単語ですがそこに内在するものが変わったようです。

楽しさが混ざりこんできたかのようなのです。
承認できたということなのでしょう。
非連続だった自己が地続きになり始めたようです。

現在のセルフイメージに音楽家のアイデンティティが統合されていくのかもしれません。
結果的に音楽的才能をもう少し使える気分になってきました。
具体的に何というわけでもありませんが自分の頭の中の音が自由になっているのです。

正に閉ざされてた知覚が戻ってきたかのようです。
当然というのでしょうか。
合唱の練習への意欲も高まってきています。

夢想のように演奏上どこをどうしていきたいのかがまとまっていきます。
付き合う方は堪ったものでないのか至高の時を過ごすのかという雰囲気でしょう。
良い演奏という定義すら既存の音楽を超えていくのかもしれません。

面白いものです。

谷 孝祐
2018.11.30

公開終了日:2019/2/28